館長雑感
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2015.12.17  
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2013.12.29  
2012.12.08  
2011.12.29  
2010.12.26 日替り なんやかんや
   
 2017.10.09  外国人の道場稽古
   
 ここ十年は外国人の道場来訪が続いている。何日か立ち寄る程度の人から、比較的多いのは3ヶ月~半年ぐらい稽古に励む人。一番長い人で2年半。初心者から経験者まで、本場の日本の道場での稽古は特別な感慨があるようだ。
 
 記憶の糸をたぐって記して見よう。

<ドイツからの留学生>
 女性でその時28歳。国からの派遣留学生でW大大学院。メール(漢字混じりの日本語)で申込みがあった。 帰国までの4ヶ月、習いたいと。 母国で初心者基本は終えており、飲み込みも早くもう少し時間があれば上達度が相当アップしたと思うほど惜しい練習生。帰国後も空手のビールスにおかされたとのメールあり。

<N.Y.から来た18歳大学生>
 ホームステイ先の夫婦に連れられて1日入門。相当空手が出来る若者と思い連れてきたが、やってみると授業でちょっとやった程度。ご夫婦もがっかり。練習後に金銭哲学を多いに語ったユダヤ系のぼっちゃんでした。

<アメリカからの留学生>
 コロンビア大学卒後、W大大学院へ留学。女性。勉学は超優秀だが、運動はからっきしダメ。日本での空手はステイタスになると入門したが、2か月でギブ・アップ。

<スエーデンから姉妹>
 7歳と11歳の糸東流を学ぶ姉妹。なんとにぎやかに総勢7名の来訪。ただでさえ広くない道場が熱気に包まれる。
 姉と組手をしたH君は後ろ回し蹴りを喰らう。相当なレベル。家族全員が暖かく見守り、応援している風情。帰国後、ストックホルムの道場練習風景のDVDが届く。

<パリからの空手マン>
 パリで糸東流道場の指導員をやっている30代の空手マン。当道場を彼女と来訪。その旨メール(英語)をもらっていたが、堂々と彼女同伴で来るのもお国柄か。兵庫県の糸東流道場に行く前に当道場に。驚いたことに汗もほとんどかかず、タオルも持っていない。体質の差か。一応タオルをプレゼントしたが。
 印象が良かったのか、兵庫県に行ったあと、また練習にやって来た。 離日する前にあっさりした礼メール。さわやかだが、やはりドライ。

そして
<アメリカ・ユタ出身のオレゴン州大学生のローク>
 2年前、7月初に突然日本語メール。ピースボートで来日したが、インターンシップで12月末まで滞在予定。その間、半年間、空手をやりたい。中国武術は若干経験あり。
 なぜ糸東流なのか、は彼女がやっておりとても素敵な術だからと。東京に着いた翌日すぐに当道場にメール。偶然その翌日が稽古日だったのですぐに会うことができた。
 何故日本語がそんなに? 大戦中、ユタに日本人強制収容所があり、その関係で同級生に日系人が居て小学校からずっと教わってきたと。
 軟体動物のように体が柔らかいセミベジタリアン。性格は飾らず率直で、出来るアメリカ人によく見かける目的志向努力家タイプ。してユーモアもあり、気のいい仲間(練習生)になった。新宿大会にも出場。平和主義者なので「形」で出場したがうっかりミスで初戦敗退。いい線いくと期待していたが、これもご愛嬌。稽古も飲み会もしっかりこなし、12月末に帰国。その後、道場はぽっかり穴が開いた感じ。
 2年経ってきたメールは、今や山にこもりスーパリンペイの形をやっていると。やっぱり只者ではなかった。

<スエーデンからの25才女性>
 20才。初めて姉と日本に来た時は、「おとぎの国」かと思った。日本の「Manga」を見てあこがれてはいたが、目まぐるしい位ビルが林立しショップが軒並み、それにレストラン、劇場。
 凍える冬、人通りの少ないスエーデンの街と比べると日本はパラダイス。
 故郷脱出を図り、23才の時に家出の如く日本へ。英語教師として働きながら、K大学の観光学科へ。その時に知り合った男性と結婚し中退。25歳にして母親になったが、忍者と空手への想いが覚めやらず、ニンジャは見つからず当空手道場へ。住居が道場に近いので赤ちゃんをハズに預けて稽古に。旦那の帰宅が遅いと欠席になり、地団駄を踏む。
 小柄で未だ基本もできていないのに組手をやりたがり、黒帯はどこでもらえるのか、練習生に聞く微笑ましさ。半年ぐらい経っただろうか。突然、旦那から退会届けメールがきてニンジャの如く消え去った。

<ニュージランドその時16才>
 お父さんが日本人の国際ビジネスマン。その関係で日本に16才から2年半留学。なぜラグビーをやらないのか聞くと、暴力的で野蛮なので嫌い。空手は紳士的?だと。体力もパワーもあるが、何せ遊びたい盛り。間歇的な参加なのでなかなか上達しない。
 後半馬力を出して頑張ったのでようやく茶帯をゲットして帰国。組手は弱い者には超強く、強い者とはやらない素直で存在自体がユーモラスなボーイ。

<その他>
 連絡だけきて、当日現れない忍びの者も多。1回のみの稽古も少なからずあったように記憶。印象に残っているケースのみを記した。

 
 今(10月現在)は外国人ゼロ。9月にシンガポールからの女子留学生(経験者)が2回ぐらい来たが、どうしても「形」ばかりを幅広く専門にやりたいとのことで残念ながら入門に至らなかった。
 
<一期一会というが次はどんな人物が来るか、楽しみにしている>
 
   
 2017.09.09  ちょっと道草 道場のある『新宿』/『新宿御苑』の由来
   
 ー内藤家18代目当主が語るー

「鷹狩りで新宿に来た家康が2代目に命じ、できた“駿馬伝説”」
   内藤新宿

「明治維新で内藤家の江戸屋敷が『新宿御苑』に生まれ変わった」
  新宿御苑

   
 2017.08.12  <二世部隊>余談(2)
    
 <参考>
 ーアメリカのために戦った日系アメリカ人の関連年表ー
太平洋戦争 朝鮮動乱 そして1965年、次世代の 日系アメリカ人たちがベトナム戦争でも戦う。全米日系人博物館


 再び、
来年(2018年)8月に<続二世部隊>を掲載予定。

   
 2017.08.10  <二世部隊>余談
   
 日本国内でも色んな事実やエピソードがある。40代以上の方がご存知のラジオ英語口座のJ.B.ハリスの著「僕は日本兵だった」は異色。「帝国海軍士官になった日系二世」立花襄著は、日本連合艦隊の最後の特攻出撃に通信(米通信・暗号解読)士官として重巡「矢矧」に。そして戦艦「大和」とともに徳之島沖水域で海の藻屑になるが、奇跡的に本人は生還。戦後、アメリカ国籍は拒否され一市民に。苦労の末航空業界の再建に貢献、活躍。「特攻隊になった日系二世」も数奇な運命が語られている。 「東京ローズ」のアイバ戸栗には同情を禁じえない。彼女の他に須山芳枝、石井メリー、早川、古屋らの英語の堪能な二世が居たのだが、彼女の気の毒だったのは彼女が米国籍だけしかもっていなかった事実。帰米後反逆罪に問われ刑務所に。彼女とそのグループの原稿は別人の手によって書かれ、主人公の名は「みなし子アニー」と命名され、アイバ戸栗が放送した内容は欺瞞に満ちた謀略放送ではなく、海外に派兵された米兵に望郷の念を抱かせるのを目的としていた。やや癖のある少女的な語り口がとくに米兵のあいだで爆発的な人気を集めていた。 彼女は在日アメリカ人としてとくにこの放送が米国に対する反逆罪を構成するとは考えていなかったと思われるが、聞き慣れたジャズのメロディと英語を喋る仕事の結果、長い間の投獄は異常な戦時下の産物としかいいようがない。

ーー二世の情報部隊ーー
 陸軍諜報学校に入った二世の猛烈な学習。後前線での必死の働き、日本軍から入手した作戦計画、命令書、部隊配置図など全て翻訳、この日系二世の情報担当者達の働きがなければ、1945年に戦争を終結させるのは不可能であったかもしれないことは本章で触れた。その情報部隊の二世が米軍の日本本土進駐と同時にやって来た。戦時中にもまして今度は日本占領と軍政施行の目的にこの二世部隊の役割が非常に重要になってきた。
 当然ながら米軍の軍服を着て、おそらく初めての日本本土に第一歩を記したのだが、彼らはすでに100%のアメリカ人になってしまっていたのと、いい意味でも悪い意味でも白人系のアメリカ人よりもはるかにアメリカ人の意識が浸みこんでいた。
 「米国にいた我々や家族を苦しめたのは、同じ血の通った内地の日本人なのだ」「日系人や二世をさげすんだ内地の日本人が屈服し、米軍の 軍服の前には何もできない、無力で卑屈な日本人」「米軍宿舎の裏口で、残飯をもらいに列をつくる情けない国民」
 占領軍の二世のなかには、日本人に対して激しい憎しみを持っている者も少なからず居たが、大半の二世は肉親が米本土で収容所に入ってるケースが多いこともあり愛憎半ばというのが実際であっただろう。彼らのなかには将校の地位についている者も大勢おり、米軍軍政部の要職について日本政府との折衝に重要な役割を果たすことになる。彼らは白人将校と同様に米国から家族を呼び寄せ米軍専用住宅地区で生活を始めていた。代々木練兵場がその名も「ワシントンハイツ」として米軍軍人の住宅になる。
 その生活は当時飢えに苦しむ日本人からみれば、まさに米国映画に出てくる最高級の生活だった。エアコン、冷蔵庫、家庭用電気器具、まるで下駄がわりの自動車。豊かな食料。戦後米軍や家族が持ち込んだ「文明」は当時の日本人には夢であったが、自分達と同じ顔した占領軍二世は、白人系アメリカ人と同じ生活をしてみせた。これは敗戦国の日本人にとっては驚きであったが、その驚きがこの時代の人々に物質文明と豊かさへの追求の動機になってゆく。
 一方、占領軍二世のなかには、「米軍が今もっとも必要とする人間」として認められた現実に満足して日本人を見下す者もいた。「勝者のおごり」というものは彼らだけではなく、むしろ人間の本性に属するものなのだろう。占領軍軍政部の各セクションの責任者は大多数が白人系軍人だったが、そのスタッフには必ず日本語のできる二世兵士がいた。当時の日本政府機関や民間の団体がなにかの許可申請や陳情を行うのには、まずこの窓口の二世の担当官に媚を売る必要があった。そしてその弱者の強者に対する「へつらい」が、ますます彼らの自身と傲慢さんを助長していく熾烈な現実もあった。

ーTo be continued in future unknown.?ー

   
 2017.08.09  <二世部隊>PART Ⅷ
   
 遅きに失した感があるといえども、日系人に対してアメリカ政府の公式謝罪と2万ドルの賠償金。この国も間違いが多い。だが正しく努力する者にとっては懐が深く、包容力があり、チャンスを与えてくれる。自浄バネが働く文化は今も健在だ。

 往時、日本の兵隊は一銭五厘のはがきで調達され、戦死してもたいした保障はなかったが、アメリカでは戦死者の家族には最高司令官の丁重なる弔意文と2万ドルの小切手が配達された。

 生きて帰ってきた「息子たち」は兵役の特権を無駄にはしなかった。GIビルという退役軍人への恩典によって、彼らは大学に進み、弁護士や医者・・・、教育者となり、ハワイの政治、経済、教育の中枢をほとんど日系人が占めるほどになる。文化的にはいわば絶海の孤島に等しいハワイをこれまでに築き上げたのも、日本人移民と、とくに二世たちの血の犠牲によるものだった。そして日系兵たちは、人種差別というアメリカ建国以来の暗部に一筋の光を灯したという意味でも、アメリカ移民史に果たした役割は重要であった。まさに、二世兵たちがハワイの一隅に血をもって掲げた光は、全米をも照らすことになったのである。しかしそのわりには、この事実に三世以降の日系人は無関心であり、とくに日本人はほとんど無知である。


 二世部隊のまさに象徴的な人物が居る。
<ダニエル・イノウエ>
1924年生まれ、42年、ハワイ大学医学部に進学、翌年、四四ニ連隊に志願。44年、イタリアに上陸。陥入爪のためローマの病院で手術を受けるが、病院を脱走して戦場に復帰。45年、イタリア・ポー川流域の戦闘で右手を失い、野戦病院で手術後
アメリカ本土の病院へ。47年に除隊し、大尉としてホノルルに帰還。ハワイ大学法学部入学。52年、ジョージワシントン大学法学部を卒業し、翌年より弁護士を開業する。54年、ハワイ準州下院民主党院内総務に就任。その後、ハワイ準州上院議員(58年)、連邦下院議員(59年)を経て、63年、連邦上院議員となる。以降、各種特別委員として活躍。現在に至る。

ーD.イノウエは記述するー
 訓練に向けて出発する直前、父は私に次のような別れの言葉を贈ってくれました。「この国は私たちを快く迎えてくれた。私たちはその恩に報いるべきだと思う。もし命を捧げるときがきたら、躊躇なくそうしなさい。しかし何をするにも、国や家族の恥になるようなことをしてはいけない」過酷な戦闘に次々と成功し遂げたヨーロッパ戦線の日系兵部隊や、太平洋戦線で情報収集の任務を帯びて、陸軍、海軍、海兵隊を支えた語学兵たちは、多くの称賛を浴びました。さらに、米国大統領、ヨーロッパ戦線および太平洋戦線の各司令官、そして日系兵とともに戦った連合軍兵士たちから、数々の感謝の言葉と最高の賛辞を受けました。戦争が終わり、兵士としての任務を全うしハワイに帰還した日系人たちには、自由と平等を得るために、命をかけた戦友と、彼ら自身のための別の戦いが待っていました。それはハワイに住む人々のための平等な機会均等への戦いであり、連邦の政府機関として平等な地位を得るための戦いでした。戦いは勝利に終わり、あれから50年以上が経ちました。ー(中略)-
 日系兵士たちは、外では両親の祖国を敵として戦い、内では自国の人間から受ける差別と戦わなければなりませんでした。日本とは戦いましたが、日系兵が両親から受け継いだ日本文化は、彼らの戦場における戦いぶりを左右し、結局、他の米国人兵士からの尊敬と平等を受ける結果となったのであります。日系二世たちは、なぜ戦場に行ったか、何と戦ったのか、その功績と役割を日本の方々にも理解していただき、-(中略)-米国市民として、日本を両親の祖国とする日系人が、今後も日米の友好関係を維持する要となることは間違いありません。二度と、あの悲惨な戦争を繰り返す「道」をつくらないことが、私の切なる願いであります。

           - 終 -

   
 2017.08.08  <二世部隊>PART Ⅶ
   
 第二次世界大戦のおいては特記されるほどの勇猛且つ果敢な民族・部族もいる。イギリス軍として戦った「ネパールのグルカ兵」。このグルカ兵にはインパールで日本軍も散々悩まされ続けた。後にフォークランド戦争時、アルゼンチン軍と戦うべくイギリスの傭兵として3000人も派遣されている。これはグルカ兵の忠実・勇猛さもさることながら、戦費負担が重いのでコストを考えた結果で、当時のサッチャー首相が批判をあびたのも時代の流れだ。それにニュージランドのマオリ族。主にヨーロッパ戦線で独軍をおおいに苦しめた。そして日本軍としての高砂族。グアムの横井二等兵、ルバングの小野田少尉と並んで高砂族の中村上等兵が戦後、見つけられたのは日本軍精神・忠勇を叩き込まれた結果だった。中村上等兵の悲劇は帰台してみると、台湾が日本でなくなり、妻が再婚していたことである。

ー アメリカのサムライ -
 「二世兵」の大半は、砂糖耕地の日本人キャンプ、農場、ホノルル郊外、または市内のカリヒ、パラマ、カカアコ、モイリリなどの地区で生まれ育った。そこは低所得者地域だった。家族は日本の家族とまったく何ら変わるところはなく、家での会話は日本語のみ。その生活習慣はすべて日本文化の伝統を継承するものだった。お盆、天長節、花祭りなどはその典型的な行事。仏教を信仰し、二世たちは日本語学校へ通うことが義務づけられた。このような日本的な生活様式は、軍隊や白人社会から見ると、逆に不信感を抱かせる結果になったが、同時に二世たちは、日本の思想やその価値観にも大いに影響を受けた。恩、義理、名誉、忠義、感謝、おかげさまで、親孝行、我慢、犠牲、責任、子供のために、国のために・・・しかし第100大隊や四四ニ連隊の二世たちは、日本ではなく米国にすべてを捧げた。多くの二世たちが、父親の最後の言葉を覚えている。「国のために最善を尽くしなさい。家名を傷つけることは決してしてはならない」。そしてアメリカにサムライ精神をもった二世部隊が誕生したのである。

 ドイツのダッハウ収容所のユダヤ人解放にはここでは詳しくは触れない。二世部隊が偶然行き合わせ、その悲惨さに目を覆ったこと、解放者が「日本人の顔をしたアメリカ兵」だったのでユダヤ人に理解できなかったが、判った瞬間狂喜し、その後も折にふれて日系兵に感謝していることは念のため記しておく。

<MIS語学兵>
 「二世通訳兵は、戦死者となったかもしれない何百万という兵士たちの命を救い、この戦争を二年も短縮せしめた」と情報局トップのウィロビー少将に言わさしめたほどの貢献をしたMIS語学兵。正式には陸軍情報部だが、語学学校を終えて太平洋戦争に参加したのは6000名といわれる。そのすべてがハワイと本土の日系人。進駐軍のメンバーとして日本にも多数派遣される。戦艦ミズリーの調印式にもずらりと日系将校がならんでいるのを見て、敗軍の将たちが目をむいたのも頷ける。
 余談だが今号の文芸春秋(9月号)にドナルド・キーン(生存)の記事にある対日情報将校は「米国海軍日本語学校」卒業の1500名、は白人ばかりの海軍だ。どこの国でも陸軍と海軍は張り合い、仲が悪い。海軍は海軍で全米の大学のトップ5%から募集し、138名の日本語教師をつけ特訓。この記事には書いていないが、ドロップは許されず、難解な日本語研修のあまりのハードさに自殺した者もいたという。資料をあさってもMIS語学兵か、海軍対日語学将校の業績かはっきりしないケースが多々あるが、二世の語学兵の貢献度の大きさには疑いの余地がない。日本軍の軍規・情報規制は狂気といえるほどきびしかったのだが、戦場では杜撰そのもの。戦場に残した軍事機密文書、全てを書いた日記、遺書、捕虜の尋問で、日本軍の動きが手にとるように判ったという。難解な日本語は判らないだろうという軍トップの油断と傲慢さがあったようだ。山本五十六元帥の戦死も語学兵の解読による。ただ、二世語学兵の素晴らしい働きも経験者の語り、伝わる事実で確認するもアメリカ国防省の記録の大半は未だ解禁になっていないのは残念だ。

 戦争には不条理がつきものだが、ドイツの占領と違って歴史始まって以来の「静かなる占領」と日本の場合はいわれる。これは、太平洋戦線で戦って血塗られた記憶のある米兵士を出来るだけ避け、本土からの新兵を進駐させたアメリカの理解と二世通訳兵の父母の国への戦後の尽力があったことは、決して忘れてはならない事実である。

         ー 続く -

   
 2017.08.07  <二世部隊>PART Ⅵ
 
  ここで簡単に大隊の説明をしておく。通常、各大隊はそれぞれ本部中隊と四つのカンパニー(歩兵中隊)からなりたっている。 一個中隊は150~200人。 その3大隊が一つの連隊を構成するのだが、第一大隊はA,B,C,D 中隊(アダム、ベイカー、チャーリ、ドッグ)、第二大隊はE,F,G,H中隊(イージイ、フォックス、ジョージ、ハウ)、第三大隊はI,K,L中隊(アイテム、キング、ラブ)になる。この時の編成はひとつの中隊は190~200人であった。

 1944年9月30日、戦闘団はマルセイユに上陸。戦況が険しくなるにつれ、100大隊/四四ニ連隊への命令が一段と厳しくなり、ついにボージュ山脈で必死に抵抗しているドイツ軍と戦うことになる。絶えまなく降る雨と凍てつく寒さ、暗い森林地帯の中で、「どんなことがあっても死守せよ」というヒットラーの言葉を忠実に守るドイツ兵との戦いでは、多くの戦死者が続出。10月19日、ブリュィエール解放。二世兵士は市民の歓呼に迎えられたが、その後にも、苦しい戦いの末、ベルモンテとビフォンティーンが解放される。

 戦いの果て、疲れきっていた100/四四ニ軍は、前線をひとまず去り、しばしの休暇をとろうとしていた。ところが急遽命令が下り、第三六テキサス軍所属の一四一歩兵隊第一大隊を救出する作戦が開始された。

<失われた大隊救出-ボージュの森の戦いー>
 ボージュの森、奥深いラ・ハウズィエラ近くの丘の上の頂上で、8日間立ち往生しているテキサス第一大隊。テキサス第二大隊、第三大隊他が何度も救出を試みたのだが、すべて失敗に終わり、日系部隊に期待がかかる。最終のゴーサインはルーズベルト大統領が出したとも言われている。
 このテキサス隊のために、悪天候の中、弾薬・食料を飛行機投下、大砲の砲筒に食料をつめて撃ったりもしたがほとんどがドイツ兵の腹の中へ。

 雨とぬかるみ、道路と言う道路は地雷、深い森、山々はどこまでも霧、森の繁みのいたるところにドイツ軍の狙撃兵。「全滅を待つテキサス大隊340名」を救うため10月27日午後4時四四ニ戦闘団は前進を始める。6日目、地獄の戦いの中、ミネアポリス出身のタケオ・センザキ軍曹に率いられたI中隊のパトロールが、ついに「失われた部隊」に到達。

 その時、全アメリカ人がラジオの実況放送に固唾をのんでいた。特にラジオにかじりついていたテキサス州の人々は二世部隊の「バンザイ」突撃に驚喜、感動する。

 二世兵たちは勝利を喜んだ。しかしそれも束の間、I中隊は197人の兵士のうち、兵士4人と士官一人しか生き残っていないことがわかり、喜びは深い悲しみに変わる。他の中隊でも平均30人から40人ぐらいしか生存者はいなかった。80時間の戦いで戦死者・負傷者・行方不明者は1400人に達した。彼らが救出した兵士の数のじつに5倍に相当する数である。死傷率97%、まさに慟哭の戦場であった。

 「本当ですよ、救出された大男ばかりのテキサス男が、みなおいおいと泣いてました。そして小男の二世兵士はみな怒っていましたよ。馬鹿野郎ども、なぜお前らのために、おれたちの仲間がおおぜい死ななければいけなかったんだ?」一人の二世兵が怒りをもって言う。

 11月12日、100/四四ニ戦闘団の功績を称えるためダルキスト将軍は全軍行進の命令を下した。通常、4000人の兵士が堂々と行進するはずだが、その日はわずか数百人の兵士しか行進せず。それを見て将軍は「全部隊の行進を命令したはずだが、残りの兵士はどうしたのかね」と、ミラー大佐に。 大佐は目に涙を浮かべ、うなだれながら答えた。
「将軍、これが部隊全員なのです。彼らが生き残りの者たちです」
         
         ー 続く -

   
 2017.08.06  <二世部隊>PART Ⅴ
   
ー イタリア戦線へ -

 キャンプーシェルビーをベースに、先に来た第100大隊と後から来た四四ニ連隊は、それぞれ訓練を続け、1943年8月、約1年2ヶ月の訓練を終えた第100大隊がまずヨーロッパ戦線に出発した。北アフリカのオランに上陸、そこで第三四師団に編入され、当初は軍需物資の補給列車の警備に当たった。しかし大隊長ターナー中佐の強い希望によって戦闘任務に加わることになり、三四師団とともにイタリアへ向かいサレルノに上陸。 1943年9月から約6ヶ月間、イタリア各地の戦線で戦い抜く。1944年3月末、四四ニ連隊が到着、合流する。この時から第100大隊は四四ニ連隊に編入され、第一大隊となる。ただし、それまでの功績によって第100大隊の名をそのまま使うことが許された。

 すでにイタリアは降伏していたのでドイツ軍との戦いになる。第100大隊は1109高地、1270高地、モンテカッシーノ等の数多の激戦をくぐり、その後四四ニ連隊としてプリュイエール・ボージュの森の戦い、ダッハウ強制収容所の解放と続く。

<モンテ・カッシーノの戦い>
 カッシノーの戦いは1944年1月17日の夜に始まった。まずイギリス軍が、カッシーノから南西へ20マイル地中海にむかって注ぐガリグリアーノ川をわたり、ドイツ軍が上流のダムを爆破したので沼地と変わり、そこに地雷が無数に埋めてある草原を合衆国テキサス36師団が泥水のしぶきをあげながらラピド川にむかって殺到し、それからニ昼夜にわたって死闘をくりひろげ、従軍記者をして真珠湾以来最大の悲劇と嘆かせることとなった。常にドイツ軍の最精鋭部隊とぶつかっている日系部隊。その部隊にラピド川渡河の命令がくだる。戦いに慣れてきたハワイ生まれの日系兵も、勇敢に戦うたびに仲間が倒れていく。とくに暖かいところで育ったハワイ生まれは、冷たい水に何日も浸かったままだから、足が凍傷にかかって動けなくなってしまう。この戦闘で第100大隊の指揮官は死傷で13回も替わった。戦える大隊兵も3分の一以下。「Go for Broke」の叫びとともに「突っ込めー」「バンザイ」の声が戦場にこだました。日系兵はどんな命令にも不満を示さず実行に自分の死を賭けた。まさにそれはアメリカの「さむらい」だった。「Go for Broke]はあとで 四四ニ連隊の歌にもなったが訳はいろいろある。 「撃ちてしやまん」「死ぬ気で頑張りとおせ」「あたってくだけろ」「やぶれかぶれ」 単純に訳せば「やぶれかぶれ」だと識者はいう。

 ハワイの二世部隊と数日間行動を共にしたアーニィ・パイル(アメリカの特派員として最も有名な存在であり、沖縄作戦で戦死。敗戦後しばらくのあいだ、東京宝塚劇場はアーニィ・パイル劇場と命名されていた)はこう書いている。「私は、アメリカ兵たちが非常に不利な状況にあっても、常に勇敢に戦うことを期待することに慣れてきた。しかし、体の小さな黒い目の兵隊たちは、記録破りの勇敢な戦いぶりを見せている。最も勇敢だといわれる部隊ですらおそらく待機し、あるいは退却するに違いない状況のもとでも、かれらは猛烈に戦い続ける。かれらはアメリカ軍にとって強大な戦力である。テキサス州とマサチューセッツ州から来た多くの兵隊たちは、口をそろえて”あの部隊がわれわれの味方だったということは幸せだった”と私に語っていた。
 あるとき、アーニィ・パイルはゴロー・サカガワに尋ねた。「サカガワ軍曹、あなたたちはどうしてこうも無理とわかっている攻撃をかけているのですか?あそこに強力なドイツ軍がいるのは、あなたがたにもわかっているでしょうに」「われわれはやらなければいけないのです。われわれはニ正面作戦をやっているのです。ドイツ軍に対して戦うと同時に、日系アメリカ人全体のために戦っているのです」とゴローは答えた。この言葉はイタリー戦線のアメリカ軍の間でも、またアメリカでも有名になった。

 イタリア中部の小都市、ピエトラ・サンタに今もサダオ・ハネモリの銅像が立つ。敵の手榴弾に自分の体をかぶせて仲間を救った行為に。
          
          - 続く -

   
 2017.08.05  <二世部隊> Ⅳ
 
<キャンプ・シェルビー>
 第百大隊が戦闘訓練の仕上げを急いでいた頃、連隊編成の四四ニ連隊の弟分たちがキャンプ・シェルビーにやってきた。第100大隊はほとんどがハワイ生まれの二世によって結成されたのに対して、四四ニ連隊はハワイ生まれが三分の二、米本土生まれが三分の一という構成であった。ハワイ生まれの二世にとっては、米本土生まれの二世たちと顔を合わせるのも一緒に生活するのも、初めてのことだった。しかも万事開放的なハワイ生まれと違って、本土の若者たちは、まず言葉が違った。ハワイのピジン・イングリッシュとくらべて、本土生まれの二世の英語ははるかに洗練されていた。だいたいハワイのピジン・イングリッシュは、ハワイ生まれの人間にしか通じないほど英語としてはひどいものであった。
 本土生まれは、まず何を言っているのかわからないその言葉に辟易し、訛のある会話をまねて面白がった。ときにはわざと聞き返して笑ったりした。するとハワイ生まれはかっときて、何がおかしい!と言って、顔が腫れるほど殴りつけた。こういう雰囲気が四四ニ連隊中に蔓延して、ことあるごとにハワイ生まれと本土生まれは対立した。そして暴力に訴えるのは、決まってハワイ生まれの日系兵たちだった。本土生まれの兵隊の頭を殴るとコトンと音がするといって、誰いうことなく本土生まれを「コトンク」と言うようになった。本土生まれのほうも、頭を丸刈りにし、頑固で日本の習慣から抜けきれないハワイ生まれを「ブダヘッド」と呼んだ。これは「仏の頭」という意味だが、ハワイ生まれは「豚の頭」という意味にとって、軽蔑されたといってはまた喧嘩になった。また、下士官級がほとんど米本土出身者で占められていたことも、ハワイ生まれの兵隊には気に入らなかった。これは英語力の差もあって、白人将校たちはコミュニケーションのために本土生まれの者たちをどうしても重要視したのである。しかしコトンクからの命令を受けるのがブダヘッドにはどうにも我慢がならなかったのである。およそ一年におよぶキャンプ・シェルビーの訓練中、コトンクとブダヘッドの喧嘩はエスカレートしていった。
 こういう状態では部隊としての戦闘能力にかかわるので、白人の将校たちはある計画を思いついた。それは、ボス的なブダヘッドを数十人指名してトラックに乗せ、日本人強制収容所を見学に連れていくことだった。その中に、後にハワイ州選出上院議員となったダニエル・イノウエもいた。戦後、ドロシー・マツオのインタービューに答えてイノウエは次のように語っている。

 有刺鉄線で囲われた強制収容所では、銃を持った兵士たちが見張り台でわれわれを監視していた。われわれもアメリカ軍の軍服を着けていたのに、ゲートでボディ・チェックを受けた。そのときから、われわれの心に何かの変化が起こった。収容所の人々は乏しい食料の中から精いっぱいのご馳走をつくって歓迎してくれた。われわれは十分楽しみ、十分感謝して収容所の人たちと別れを告げた。
 帰りのトラックでは、もう誰も歌を歌わなかった。みんな黙っていた。信じられない体験だった。あの有刺鉄線の中からコトンクたちは志願してきたのだ。おれならどうしただろうか、とハワイ生まれは皆思った。それからブダヘッドたちの態度も変わった。ここではじめて本土生まれとハワイ生まれが一つの組織となった。それからはブダヘッドもコトンクも、お互いにその名を親しみを込めて呼ぶようになった。

<JAPと呼ばれると>
 基地の中でも外でも喧嘩が絶えなかった。ほとんどのハワイ生まれは一世(親)の影響で柔道・剣道・空手・ボクシングの経験があり、JAPと呼ぶ相手に容赦はしなかった。やられたらやりかえす、15~6人で仕返しに行く団結心には、かたまる習慣のない白人はほとんどやられてしまった。

       - 続く -

   
 2017.08.04  <二世部隊> PART Ⅲ
   
<内なる戦いの日々>
 戦争は狂気をもたらす。日系アメリカ人に差別の嵐が吹く。本土に居た日系人は全て収容所。戦後も財産は全て戻らず。許婚者を捨て白人と結婚した日系女性も少なからずいた。同じ敵国のドイツ人、イタリア人とは完全に別扱い。

 ハワイ出身のヘンリー・クニユキは言う。自分の父はハワイでの有力者、日本語学校の理事長や真言宗の理事長職を勤め領事館の手伝いや、日本からの海軍の艦隊が来るとその世話を積極的にやっていたので、戦争がはじまると、すぐFBIや海軍の兵隊が家の中を調べに来て、父はアメリカ本土の収容所へ連れて行かれた。母がひとり残った。父の商売は完全に挫折。政府への嘆願も通ぜず、仕方なく今なら35万ドルくらいする貸家を、2000ドルで投売りして生活をしのいだ。一度、父のいるコロラド州アマチの収容所を訪問したことがある。私がアメリカ軍の軍服を着ているのにもかかわらず、警備兵がみんなマシンガンを向けてきたので驚いた。白人としては日系人の本心を知らなかったから、日本人の顔をしていれば敵性外国だと思ったのだろう。とにかく偏見が強くて東洋人を一段下に見ていた。

 またこんな事実もある。極秘で26名の日系兵が犬の訓練に使われた。 メキシコ湾にある小さな島、キャット島での軍用犬の訓練。日系兵は、納豆や味噌汁、タクアンなどを食べている日本兵と同じ匂いがするはずだから、犬が日本兵を嗅ぎ分けて咬みつくように訓練するのに使おうとした。そういう訓練を受けた犬を南太平洋の戦場の島々に連れていって、ジャングルに潜む日本兵の発見に役立てようという奇抜な発想だった。しかし、訓練は五ヶ月ほどして中止になった。いくら日本人の血をついでいるとはいえ、納豆もタクアンも食べない二世たちから、白人と違った匂いを嗅ぎ出すのは、犬の嗅覚もってしても無理だったようだ。この訓練は極秘なのは二世を日本兵がわりに訓練に使ったという人種的差別や偏見と見られるのを、軍部が警戒したからである。

 敗戦を終戦、撤退を転進などというまやかしがこの時のアメリカにもあった。日系人の収容所を強制収容所 (Concentration Camp)といわず再配置収容所(Re-Location Camp)と言い換えているところだ。戦勝国も敗戦国も戦時下においては同じく不条理なことを犯す。ただ日本とアメリカの違いは時間の経過とともに顕著に出る。最後まで大本営発表を繰り返し狂信的だった日本、だんだんと正義とは何かを考える人たちの勢力が増えていくアメリカ。往時、運命を呪うことしか出来なかった日系人達ではあったが、特に二世達の死をかけた軍人としての働きが突破口を開く。
           ー 続く -

   
 2017.08.03  <二世部隊>PART Ⅱ
 
 今こそ忠誠を誓おうと張り切っていたROTCの二世たちは、その忠誠心を疑われ失望した。彼らは軍政部あてに何度も嘆願書を送り、どんな仕事でもよいからやらせてくれるよう要望した。その要望がいれられ、ようやく労働大隊として第三十四陸軍工兵隊に配属された。彼らは自らを、VVV(Versity Victory Volunteers 大学必勝義勇隊)と呼んだ。しかし彼らは、あくまで銃をとって戦うことを希望し、忠誠を誓い、政府や軍部あてに熱心に嘆願書を送り続けた。その誠意と、太平洋戦争の戦況が思わしくないことから、ついに軍部は日系兵による部隊の編成を計画した。それより先、まずハワイ国防軍に属していた日系歩兵大隊を結成し、アメリカ本土に送った。これが後に第100大隊と名付けられる二世部隊である。この第100大隊の訓練の成績が、教官たちを驚かせるほど優秀だったことから、さらに大規模な日系二世部隊の結成が計画され、まずハワイから1500名、本土から3000名の二世の志願兵を募った。それに対しハワイからは一万2000人が応募したが、本土からの応募者は500人にも満たなかった。そこで陸軍は再募集を行い、ハワイから3000名、本土から1500名を募集し、四四ニ連隊を編成した。
 1943年4月、キャンプ・シェルビーで訓練が開始された。並行して、第100大隊、四四ニ連隊、さらには一般市民の中から日本語のできる者を対象に、MIS(Military Intelligence Service陸軍情報部)要員を募集した。これは太平洋戦向けの日本語のできる語学兵の育成を目的としたものである。
 かくして、まず第100大隊、次に四四ニ連隊、そしてMIS語学兵と、三種類の日系部隊が次々に結成され、歩兵はヨーロッパ戦線、語学兵は太平洋戦線へと送り出されていくのである。

 真珠湾攻撃2ヵ月後、本土から視察に来た将軍が日本人ばかりだと危ないと言ったため、重要な所を警備していたハワイ準州警備隊(テリトリアル・ガード)90%が二世なのだが、解散させられたのが手始め。あらゆる差別が起こる。不運にも米国市民としての二世への扱いは、日本人の両親から日本文化の伝統の影響を受けていたという表面かつ一方的な見方と、認識と理解にまったく欠けた政府と軍の行為により、不平等きわまるものだった。米国人として認めてもらうための二世の努力は、体制面によりまったく無視されたいた。差別と戦う辛く厳しい年月が続いた。

<お前は誰を撃つのか>
 第100大隊のエピソードを描いたトーマス・マーフィ教授の「武器の大使」には、次のように記された箇所がある。・・・真珠湾攻撃直後、ノースショアーのある基地で、298歩兵部隊所属の兵士が、機関銃を持ちながら日本軍の攻撃に備えていた。一人はハワイアンで、一人は二世だった。長い沈黙の後、ハワイアンの兵士が、二世の兵士に向かって挑発めいた言葉をかけはじめた。ハワイアンの兵士は、「もしあいつらがやって来たら、おまえはいったいおれと 奴等とどっちを撃つんだ?」
 二世兵士はまたか、と思いながらも、「お前はバカか、おれを何だとおもっているんだ。おれは お前と同じアメリカ人だぞ」・・・お前は誰を撃つつもりなのか。これは、二世が日系人以外の人種からいつも聞かれる質問だった。しかしこれは、真珠湾攻撃によりもたらされた大きな大きな疑問だった。この質問に対する答えは、第二次大戦で示した二世の心、魂、そしてガッツ精神そのものだった。
           
        ー 続く -

   
 2017.08.02  ちょっと道草 あの『二世部隊』
   
 暑い8月がまたやってきた。72年前の終戦の夏。ダニエル・イノウエはイタリア戦線で片腕を失い、欧州の病院で迎える。退院後英雄として帰米したが、バーバ・ショップに行き、ジャップと罵られて断られショックを受ける。医師への道から法律家そして政治家になるひとつの転機になったと本人は述懐する(自著より)。
 2012年12月に亡くなったが、今年4月。栄誉をたたえてホノルル空港がダニエル・K・イノウエ国際空港になった。
 上院議員時代、必ずしも日本のためでなく手厳しい態度をとることがままあったが、時の総理・岸信介が訪米したとき、日系アメリカ人を駐日アメリカ大使に大統領に推薦できる立場にあると好意を持って岸総理にすすめるも、日本の伝統は由緒ある家柄から選ぶものだと岸。あぁここにも・・と、イノウエは嘆いたことを最後の自著で書いている。
 とまれ、ダニエル・イノウエの生きざまは心を打つ。子供の頃、二世部隊の映画を偶然に見、その後、ダニエル・イノウエ、スパーク・マツナガの存在を知るが、資料が少なく心のひだに残っていたが、時が経ち見えてきた15年前あるホームページに「二世部隊」を寄稿・掲載した。今や情報があふれる時代になったが、今ひとたび読んでいただければ幸い。 15年前のそのままで掲載した。

<ダニエル・イノウエ>
ウィキ

<岸信介>
ウィキ

参考


<二世部隊>PART I


 終戦から58年。生存されている元軍人も少なくなった。赤紙(召集令状)によって応召し、生き残られた方々の最低年齢は78歳前後。学徒動員・現地応召でない限り昭和元年生まれまでの人たちだ。元年といってもほんの一ヶ月。実質は大正15年。戦争体験が風化していく。今やアメリカと戦争したことが信じられない若い人もいると聞く。いまだに敗戦と言わず終戦という不思議さ。戦争は不条理そのものだが、今大戦時同じ民族がアメリカでもうひとつの戦いを続けていたことを歴史的事実として知る人が余りにも少ない。日本ではなく米国にすべてをささげた日系二世。当時の日系アメリカ人は日本政府から一種の棄民扱い。鎖国令以来のこの国の悪しき伝統か。第一回芥川賞受賞作「蒼氓」をみても解る。

 1941年12月7日(日本では8日)日本海軍航空隊の真珠湾攻撃後、日系アメリカ人でアメリカ本土にいたものは全て収容所に入れられた。日系人が三分の一のハワイは不穏分子と見られたものだけが収容される。

 二世からなり辛酸を極めた戦闘を続けた第百大隊、四四二連隊の生存者も今や高齢。その二世部隊の生き残りを広汎にインタビューした著作がある。私たちは何と戦ったのか?「ハワイ日系米兵」荒了寛編著の元兵士の体験談がまさに心を打つ。矢野徹著「442連隊戦闘団」も秀逸だ。他に「アメリカ強制収容所」ミチコ・ウェグリン(山岡清二訳)・「帰米二世」山城正雄・「ダニエル・イノウエ自伝」「二世 このおとなしいアメリカ人」ビル・ホソカワ(井上勇訳)等、参考・抜粋・引用しつつ筆を進めていく。

 1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃当時、ハワイには15万9500人の日系人が住んでいた。これはハワイの全人口の34.2%にあたり、このうち3万5800人はアメリカ国籍を持たない日本人だった。日本人移民は、経済的にも社会的にも他の移民より安定していたが、突然の戦争によってその立場は逆転した。12月8日には370人の日系人が逮捕され、さらに12月15日から翌年2月までに二百数十名のリーダー格の日系人や帰米二世が逮捕された。この中には日本の攻撃を、やむをえない、よくやった、と言う日本人もいたが、多くは、せっかく築き上げた生活基盤がこれからどうなるのかといった不安にかられ、われわれしょせん棄民だ、と憤りをあらわにする者も少なくはなかった。
 いっぽう、実際には日本をまったく知らない二世たちは、生まれたところが母国であり、たとえ親たちの母国であれ、われわれの国をだまし討ちした、われわれに戦争を仕かけてきた、と直感的にアメリカ人としての行動をとることを決意し、立ち上がった。ハワイでは真珠湾攻撃以前から徴兵令がしかれ、四回に分けて他人種と一緒にハワイ国防軍に入隊し、訓練を受けていた日系兵がいた。また地方防衛軍(ハワイ直轄領守備隊)にも500名の日系兵がいたが、これは開戦とともに解任させられた。ROTC(予備役士官訓練部隊)の二世たちも武装を解除され、まもなく除隊を命じられた。
                 
      ー 続く ー 

   
 2017.06.27  ー空手とは何か(5)最終回ー
 
 <呼吸法>

 『・・・武術の神髄は、「呼吸」でしょう。「立ち」と同じく、もし「呼吸」にまったく触れない流派や指導者がいれば、それは間違いなく偽物です。弓道、合気道、空手道など、武術一般に、呼吸は強調・重視されています。
 特に、突きや蹴りでの攻防接触を主に想定している武術である空手では、呼吸と身体動作を精妙に合わせることが、戦いのための奥義であると考えられています。別のいい方をすれば、呼吸と身体動作が上手く合わないと、相手からのインパクトに押し負けると同時に、相手に十分にインパクトを伝えることができません。空手中興の祖・糸洲安恒先生の高弟である遠山寛賢先生は、「沖縄正統空手の極意は、呼吸法がその根底をなし、気力の充実をもって至高の奥義となす」と述べているといわれてます。
 
 この呼吸(法)には、大きく、胸式呼吸と腹式呼吸があります。幼児や児童は腹式呼吸を自然としていますが、成人した現代人の多くが胸式呼吸をしているといわれてます。・・・胸式呼吸とは、息を吸う際には胸を(胴体の上部)を膨らませる(肋骨を開く)ので腹が凹んだ腹が元に戻ります。例えば、ラジオ体操や学校で指導されるいわゆる「深呼吸」は、大きく胸を開いて空気をできるだけ多く吸い込むようにする胸式呼吸です。ここでは、「息を吸うこと」に重点が置かれます。
 一方、腹式呼吸は、息を吸う際に腹が膨らみ、息を吐く際にはその膨らんだ腹が元に戻ります。したがって、腹の動きは胸式呼吸と逆になります。ただ、空気が入るのは肺(胸部)なので、実際に腹に空気が入るわけではありません。横隔膜を下げることで肺の容積が増えるために、外界との気圧差が生じて空気が入ります。横隔膜を下げるので、結果的に、内臓が押し出されて腹が膨らみます。この腹式呼吸では、胸式呼吸とは違い、「息を吐くこと」に重点が置かれています。



 この胸式や腹式とも異なる呼吸法、日本における武道芸道における呼吸法が「丹田呼吸法」です。丹田呼吸は、腹式呼吸の一種と考えられますが、やややり方が異なります。丹田(下丹田、臍下丹田)は、臍下三寸(または数センチ、指数本分)のところにあるとされますが人それぞれであり、大雑把にいえば、下腹と解釈して良いです。息を吸う際、丹田を意識し、腹圧を上げて横隔膜を下げ、下腹を膨らませます。息は2~3秒ぐらいで短く吸います。腹が膨らんだら、息を1~2止めつつ、丹田を意識してそこに力を込めます。次に、息をなるべく細く長くゆっくりと、8~10秒ぐらいかけて吐きます。この際、丹田(下腹)に込めた力を抜かないようにします。 したがって、通常の腹式呼吸の場合は、息を吐くときに腹が緩んで凹みますが、丹田呼吸の場合は、息を吐くときにも腹に力を入れて腹圧を上げたままにするので、腹は緩みにくく凹みにくくなります。このように、丹田呼吸は、(一)「吸い」と「吐き」の間に「止め」の間があり、(二)下腹あたりを意識してそこに力を込めながら、(三)呼気をできるだけ細く長くゆっくりと行う、という点が特徴的です。



 空手の根幹は呼吸であり、空手における呼吸とは、すなわち、丹田呼吸です。そして、空手での丹田呼吸は、通常の丹田呼吸と比べて、「吐き」の際に、より一艘腹圧を高め、下腹(丹田)に力を込めて目一杯に膨らませます。空手の防禦と攻撃は、その「吐き」一致調和して行います。
いわゆる「腰を入れる」とは、この丹田周辺の腰と腹の筋肉群を呼吸と連動させて締めることです。腰が入っている状態とは、決して腰を回転してひねり込ませることではありません。そのような状態は極めてバランスの悪い、無理にねじれた姿勢になっているはずです。力も入らないでしょうし、また、敵に対して正体してしまっているかもしれません。
 そうではなく、丹田呼吸でもって腹圧を高めながら前面の腹筋周辺の筋肉群を締め、それによって前に出る力の反作用を、背面(腰)の筋肉群を締めることで受け返し、身体内部の中心軸をバランス良く保つことです。中心軸が、まるで磁力(の反発力)によって宙に留まるような感じといってよいでしょうか。つまり、腹筋群と背筋群の作用と反作用を中和させて中心軸が一本通っている状態こそ、腰が入っている状態ということになります。』

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 終章 ー  

   
 2017.06.19   ー空手とは何か(4)ー
   
『空手は武道であり、武道は形で稽古します。空手を考えるということは、形を考えるということと同じです。・・・』

<空手の身体的エッセンス>

 『空手という沖縄発祥の伝統的な武術には、数えきれないほど多種多様な流派があります。伝承する形がその流派の特徴を示しますが、それは、何という形を伝承しているかのみならず、その形を構成する一つ一つの技の理合も多くの場合は異なります。
 ただその中でも、首里手のエッセンスを凝縮した形であるナイファンチ、那覇手のエッセンスを凝縮した形であるサンチンは、多くの流派に伝承されています。しかし、そのナイファンチあるいはサンチン一つをとっても、流派によって、また、師によって、技術論・身体論は微妙に(場合によっては大いに)異なります。では、空手という武術には、流派を超えた核となる技術、すなわち、これこそが空手である、という共通した身体操作の技術はないのでしょうか。答えは、ないともあるともいえます。
 空手は、身体を通した技術の伝承であり、当然、一人一人の身体は異なるので、伝承の過程を経て変容することは避けられません。つまり百パーセントのコピーということは物理的にありえません。ここに、伝承する側と伝承される側の乖離が生じます。流派(分派)はここから生じます。しかし、ある一定の効果を持ちうる空手独自の技術は、伝承する側と伝承される側の弛まぬ努力と工夫によって、一定のものが保たれることになります。この一定のものこそが空手の核になるエッセンスです。
 この、目には見えないけれども伝承者(稽古者)の身体の中でおぼろげに感じられるものが、沖縄発祥の伝統武術、空手といえます。もし仮にそのエッセンスが伝承されていなければ、それは空手ではありません。しかし、これを完全に言語化することは極めて困難です。なぜなら、それは身体を通してしか十二分に語りえないからです・・・。

<首里手のナイファンチ、那覇手のサンチン>

 首里手では、「ナイファンチに始まり、ナイファンチに終わる」といわれます。首里手の基本的な攻防動作は、このナイファンチに集約されます。ナイファンチは短い形ですが、その短い形の中に、空手独特の受け、突き、身体操作の方法が含まれます。原理主義的に考えれば、首里手をするならナイファンチだけで十分である。といってよいでしょう。伝説の空手家である本部朝基先生はかって、ナイファンチしか稽古しなかったといわれています。実際には、その他多くの形もできたでしょうし、稽古もしていたと思われますがそれほどナイファンチが空手(首里手)の原理を集約した究極の形であるということを示すエピソードとして、この本部先生の話は広く知られています。
 一方、首里手のナイファンチと同じく、那覇手では、「サンチンに始まり、サンチンに終わる」といわれます。サンチンは、那覇手に特徴的な身体操作を凝縮しています。ナイファンチほど攻防動作は含まれていませんが、移動・受け・突きにおける身体の呼吸・立ち(重心)・締めという、空手的な身体操作の根幹となるもっとも重要な原理的動作で成り立っています。それらの原理をゆっくりとしたスピードで行い、身体にじっくり染みこませます。糸東流では、サンチンで習得した身体操作の原理を、首里手・那覇手の区別なく、あらゆる形に含まれる動作や技に適用します。

ー代表的な形ー
  「首里手」
 ・ナイファンチ
 ・ヘイアン
 ・バッサイ
 ・コウソウクン(クーサンクー)
 ・ローハイ
 ・ニーセーシ
 ・ジオン
 ・ワンシュウ
 ・チントウ
 ・ゴジュウシホ(ウーセーシ)
  「那覇手」
 ・サンチン
 ・テンショウ
 ・サイファ
 ・セイエンチン
 ・セーサン
 ・セーパイ
 ・シソーチン
 ・サンセール
 ・クルルンファ
 ・スーパリンペイ(ベッチューリン)

<形はバイブル>

ナイファンチやサンチンといった核となる形以外にも、空手には数多くの形が伝承されています。そして、それらの形にはそれぞれ一定の意味があります。空手の稽古では、形に含まれる動作を一通り覚え、身体にある程度馴染んだところで、形に含まれる基本的な技の解釈を学びます。そして、基本的な技を理解し習得した後に、形の中に含まれる動作を様々に解釈します。すると、形の動きから技が無限に広がります。また、動きのどこからどこまでを一連とするか、あるいは、形の中のある動作とある動作を組み合わせるとどうなるかを考えると、技はさらに自在に創造されます。したがって、形の分解は理論上、無限といって良いわけです。形の妙味、空手稽古の味わいはそこにあります。
 糸東流では、この、形とその分解を最重要視します。形をひたすら反復稽古し、形の中に含まれる動きが意味する技を、実際に相手を伴って試します。むろん、形の解釈は一方で一定の意味を持ちつつ、一方で無限であり、したがって、空手家は形から一定の技を理解しつつ、無限の技を創造します。これが本来の伝統的な殻て稽古のあり方であり、また、もっとも核となるべき稽古であり、糸東流はその伝統を忠実に踏襲しています。
 このように形には、さまざまな技が込められています。形には、技を成立させるための身体操作の方法が、複雑に織り込まれています。また、形の中のある動きも、解釈によっては様々な意味合いを持って、幾重にも応用的に技が広がります。このように空手の形とは、いわばバイブルでありテクストであり、形から多くのことを引き出すことができます。空手稽古の面白さの一つは、こうした形の解釈と技の発見にあります。喩えれば、哲学研究者が哲学者のテクストから様々な意味を紐解くように、空手家は形から様々な技を紐解きます。もちろん、ある動きから導き出される技に限度があるでしょうし、多様な解釈を挟まない動きもありますが、バリエーションは多様であり、また修行段階によっても変化します。

<形は使えない?>

こうした特徴を持つ形において、そこでの動きそのままそれが実戦に役立つわけではありません。形とは、技を有効にするための身体操作の方法を織り込んだ体系であり、稽古者は、それを繰り返し稽古することによって自らの身体に沁み込ませます。そして、実際の多様な状況において、練り込まれた身体操作が状況に則して自然に動作することが求められます。その結果、現実には、形通りの動きにならないのは当然です。
 スポーツ空手をやっている人の間でしばしば語られるのが、「形は使えない」という言説です。しかしこれは、二重の意味において誤っています。まず、第一に、スポーツ空手の形(形競技で演武される形)は、本来の形ではありません。審判に見栄えの良いように、動きが派手であり無駄が多いものになっています。そのために武術的な動きとしばしばかけ離れています。当然、実際に使えるわけがありません。第二に、スポーツ空手の選手にとって「使う」とは、おそらく組手試合に使うという意味合いと推測されますが、たしかにルールと審判によって成立するゲームである組手試合の技としてまったく使えないでしょう。なぜなら、空手の形に込められている技術は、そもそも、組手試合用ではないからです。したがって、スポーツ空手の選手や愛好者からすれば、「形は使えない」のは当然といえば当然です。

<糸東流と形>

 糸東流には、首里手(糸洲系)の形と那覇手(東恩納系)の形の両方が伝承されています。大半の流儀は、首里手の形もしくは那覇手の形だけを伝承していて、糸東流のように両方を同時に伝承している流派は数少ないです。糸東流以外には、一心流や心道流などぐらいです。糸東流のオリジナリティと奥深さはここにあります。「空手」を稽古するとしたとき、首里手のみあるいは那覇手のみでは、沖縄発祥の伝統武術である「空手」を学ぶという点で、極めて惜しい気がします。首里手も那覇手もいずれも優劣つけがたい稀有な武芸文化だからです。また、両者には沖縄で熟成された武術として共通する身体操作があります。首里手と那覇手の両方を同時に学ぶことはできないとする言もありますが、糸東流開祖であり達人の一人に列せられる摩文仁賢和先生にしたがい、この両者を学ぶことこそ、空手の神髄に触れることができると思います。
 ただ、糸東流には首里手と那覇手で伝承されている形を併せて、四十以上の形があります。これだけ多くの形を実際問題としてすべて練ることは不可能です。つまり、形には、練るべき形と練りたい形があると考えています。 糸東流でいえば、練るべき形はサンチンとナイファンチです。サンチンとナイファンチによって、空手の身体的エッセンス、すなわ、空手という武術の身体操作の原則を体得します。サンチンとナイファンチは、日頃より常に練り続けることで、空手的身体の上昇へと結びつきます。究極的には(原理主義的には)、サンチンとナイファンチのみを練り続けることも一つのアプローチでしょう。 これに加えて、練るべき形としては例えば、テンショウ、ヘイアン、バッサイ、セイエンチン辺りでしょうか。空手に終わりはありません。すなわち、マスターする(修行を完遂する)ということはありません。したがって、練るべき形は死ぬまでひたすらに練り続けます。 繰り返しますが、糸東流には四十以上の形が伝承されていて、一人の糸東流稽古者がこれらすべての形を万遍なく練り続けることは物理的に不可能です。となれば、練るべき形と、残りは練りたい形を練り続けるしかありません。では、練りたい形とは何でしょうか。それはおそらく、自身の身体の筋に合う形ではないでしょうか。いくつもの形を練っていれば、自然と、自分の身体とフィットする形というものが見つかります。その手がかりは自身の身体感覚です。だとすれば、限られた時間の中で、練るべき形を厳選し、練りたい形を厳選し、出来る限りそれらを練り続けることが、空手稽古者に求められるでしょう。練るべき形は師が示す一方で、練りたい形は自身が決めるしかありません。』
 

ー 言い得て妙だが、まさに「喝破」、糸東流ひいては空手稽古者の心の琴線にひびく言葉でなかろうか ー
 

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

             ー 続く ー    

   
 2017.06.10   ー空手とは何か(3)ー
 
 <空手の流派>

 『流祖(開祖)とは、一般的に、師の伝える流派から分派した弟子のことです。ただ、空手の場合は、多少様子が異なります。空手家が流派を名乗り始めたのは昭和に入ってからであり、それまでは流派らしい流派はなく、沖縄の各地域でそれぞれ独特の技術が伝承されてました。代表的なものがすなわち、首里手と那覇手です。糸東流開祖・摩文仁賢和先生は、首里手の糸洲安恒先生と、那覇手の東恩納完量先生から、それぞれ手を学びました。本土に移住後、両師の名から、自身の手を「糸東流」としたことは有名です。 こうして流派を名乗るようになったのは、近年になってからであり、多分に、日本の剣術や柔術の影響によるところが大きいといわれています。一説には、本土では「何流」と名乗るのが通例であったために、やむをえず名乗ることにとなったという話もあります。
 首里手の中興の祖・糸洲安恒先生の高弟である遠山寛賢先生は、「空手に流派なし」として流派を名乗ることを拒み続けました。また、松濤館の開祖である船越義珍先生も、自身は流派を名乗っていません。「松濤館流」という名称は、船越門下の弟子が名乗り始めたものです。したがって、沖縄の剛柔流やショウリン流(小林流、松林流、少林流、少林寺流)、本土の糸東流や松濤館流などは、糸洲安恒先生や東恩納完量先生などの、流派なき時代の師の直弟子が創始したという意味で、厳密には、流派からの分派とは微妙に異なります。つまり、空手は本来、流派という厳密な境界のない、もっと曖昧な武芸文化であったと考えられます。』


ー昭和の終わり頃までに、沖縄の空手家もしくはその影響下にある先生から直接 教わった本土の先生方はほとんど居なくなり(その先生方を一世とすれば)平成に入り今や高齢の二世に続く三世、四世が教える時代、沖縄との関わり合いがほとんどなくなった時代に変遷ー


<流祖と流派間の相違>

 『空手は本来、流派という厳密な境界もなく、技術体系もすべて口伝の、曖昧な武術文化でした。こうした緩さのおかげで、摩文仁賢和先生は、首里手も那覇手も学ぶことができたと想像されます。そして、伝承はすべて師と弟子の身体間でのみ行われるために、首里手や那覇手の技術は、時代とともに大いに変容してきたはずです。まさに沖縄的テーゲー主義の元に、です。したがって、現代における流派間の技術的差異は、糸洲安恒先生と東恩納完量先生のそれぞれの高弟であった各流派の流祖の、身体(および身体感覚)的理解の差異に帰することができると考えられます。 このように、歴史的に見て、沖縄で発達した手という武芸文化は、変容を大いに許容する要素を内包している文化であり、現代において分派が盛んなのも
そのためではないかと考えられます。同じ那覇手の形でも、糸東流と沖縄剛柔流では、若干異なります。また、沖縄のショウリン流が伝承している首里手の形と糸東流の首里手の形も、細部で動きや用法が異なります。松濤館流の船越先生の首里手は、そもそも安里安恒先生の手であるからかもしれませんが、糸洲先生の門下と違って、船越先生の独自性が強いように思います(したがって、松濤館流の形は、他の流派と異なる部分が多い)。こうした、現代における流派間の技術の違いは、ひとえに、19世紀後半の首里手や那覇手の大家の高弟(=流祖)の、身体(および身体感覚)的な差異に基づく理解の差異に基づくのではないだろうかと想像されるわけです。』

<参考>
①「テーゲー」の意味に関してのベストアンサー
「テーゲー」

②流派と通底する本質





 『ただ戦後、文字のみでなく写真による記録が盛んになり、映像記録も加わり、近年では個人が気軽に動画撮影をできるようになりました。このため、技術の変容は相対的に起きなくくなっているのもまた事実です。しかし、そうはいっても、身体分阿である以上、本来的に技術の変容は免れません。一見異なって見える空手の流派間の技術的差異は、流祖の身体(身体感覚)的差異に基づく理解の差異に起因している可能性が高いことは、繰り返し説明した通りです。そして、真に空手を修行する者は、その見かけの違いを捨象し、通底する本質を見極めるべきではないかと思います。流派は異なれども、空手として通底する本質が必ず存在するはずであり、それは、いたってシンプルな諸原理・諸原則と考えられます。空手に流派なし、とした先人の思いがここにあるのではないでしょうか。』

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 続く ー  

   
 2017.05.15  ー空手とは何か(2)ー
   
<首里手と那覇手>

 『・・・沖縄伝統の武術である「手」は、大きく首里手と那覇手に分けられます。現代の沖縄には、首里手の系譜としてショウリン流(小林流、少林流、松林流)が、那覇手の系譜として沖縄剛柔流が残っています。沖縄三大流派としてもう一つ、上地流があります。上地流は、流派として興ったのが近代になってからであり、また、形の種類や技術の面で剛柔流とは異質ですが、サンチンやセーサンなど共通する部分も多く見られることから、大きくは那覇手という括りに含めて良いでしょう。・・・また、以前は、泊地方で行われていた手、つまり、泊手というものもありました。しかし、技術的に首里手と共通する部分も多かったためか、現在では、首里手に内包されていて、特に泊手として特異的に独立して伝承・稽古されることはほとんどなくなっています。
 形に含まれる技から、全体的に、首里手は想定する敵との間合いが相対的に広く、那覇手は相対的に狭いと考えられています。また、那覇手では呼吸と身体の締めを修行の初期段階から意識的に重視するのに対し、首里手では呼吸と身体の締めを強調することはせず、これらは稽古を経る中で自然に身につくと考えます。沖縄の空手家の中には、突き方一つとっても、両者は異なるという人もいます。そのために、両方を習うことはできないと考える人もいます。 このように首里手と那覇手は、敵との間合い、呼吸や身体の締めに関する態度、技における身体の操作方法などに違いがあるとされます。しかし、戦いの際には、敵の位置や動きに応じて、様々な間合いに対応する必要があります。間合いが遠いから近いからといって、敵は待ってはくれません。あらゆる間合いの攻撃に対応する技を身につけるべきだと考えられます。そもそも敵と相対するにあたって、実際は手や足の接触する範囲での一瞬の攻防になります。であるならば、首里手と那覇手の「間合い」はわずかな差であり、併伝・併修できないような差ではありません。また、空手的身体操作の根幹は、呼吸と立ち(重心)と締めであることは首里手だろうと那覇手だろうと同じですから、最初からこれらを意識的に稽古するに越したことはありません。
 細かいところでは身体の操作技法は違うかもしれませんが、どちらも沖縄で発達した対人的な戦闘技術として、根本的な技法には共通するものがあるはずです。そのように仮定すれば、端から技の方法や理合が違うと決めつけて首里手と那覇手を別物として区別するのではなく、両者に共通の理合を追及し、技術的な融合を図ることで、手として昇華される筈です。沖縄の空手家である摩文仁賢和先生が興し今に至る糸東流の独自な存在意義と責務は、ここにあるのではないでしょうか。
 
 糸東流の最大のオリジナリティは首里手と那覇手を併伝・併修している点にあります。糸東流を真に稽古する者であれば、必然的に、首里手と那覇手を越えた手とは何かを考えます。首里手と那覇手の融合を模索します。手としての共通原理を求めるようになります。そのような思いをまったく抱かずに、自分は糸東流だと名乗っている稽古者がいるとすれば、その人は残念ながら、糸東流の本当の醍醐味をまったく味わっていないことになります。
 技術的には、糸東流の首里手は那覇手のように、糸東流の那覇手は首里手のようになります。そこに糸東流独自の手が現れてきます。首里手と那覇手の両方稽古する流派はもちろん糸東流だけではありませんが(沖縄の一心流や心道流など)、いずれにしても、首里手と那覇手の両方稽古することにこそ、沖縄伝統武芸としての手を習うことの味わい、醍醐味、面白さがあるのでは
ないだろうかと考えられます。』

<伝承と流派>

 ついこの前までは、おらが道場・おらが流派の我田引水的な理屈がまかり通っていましたが、このネット情報化社会の中、実情を見事に俯瞰視しており、大局をおさえた著者のさえさえ感じさせます。↓

 『空手には現在、無数の流派が存在します。一空手家一流派といっても過言ではありません。空手は、武芸、すなわち、アートであり、アートの特性上、基本的な技術の枠組みはあるものの、その先は個人次第という面があるため、必然、分派をもたらします。身体操作技法の伝承は、個人から個人へと、身体を通して行われるために、百パーセントの複製は不可能です。また、武道における「守・破・離」を考えれば、分派の芽を内包しているのが、アートであるといえます。 弟子は弟子だけれども、師匠とは違います。志のある弟子ほど、アーティストとして独立したい、自身独自の技術を広めたいと思うのは、十二分に理解できる心情です。仮にスポーツ化を推し進めれば、剣道や柔道のように、流派や技法の統一化がなされるでしょうから、アートとしての余白はなく、分派もあまり起きなくなるでしょう。また、伝書・奥義書などの文書(文字)による技法の伝承が古来より連綿となされていれば、一個人がその歴史と伝統を越えて独自の流派を立てることもなかなか難しいでしょう。さらに、少林寺拳法や合気道のような新興の流派の場合は、技術体系の構造化がすでに高度になされているために、そこから新たに分派することは多大な困難を伴うでしょう。
 実はこれらの、アートではるが分派を妨げる諸要因が、空手には少ないといえます。空手は、古来より琉球王国で発展してきた歴史のある武芸ですが、その歴史とは技術体系を言語的に伝承する伝書・奥義書の類はありません。また、技術体系そのものも身体的伝承を繰り返してきたために曖昧模糊としていて、当然、競技スポーツとしての統一化にはほど遠いところにあります(武術の伝承として、スポーツ化を望む望まないかは別として)。 したがって、空手稽古者各自が「これが空手だ」と思うところは様々、ということになります。このため、沖縄の伝統武術としての空手の神髄というのは確かに存在するのですが、そこに至るまでの間に各人各様に空手を定義してしまうために、各々が得た真理を各々の言語と身体で語ろう(伝えよう)とします。結果として、空手は、他の武道よりも分派が起きやすい状態に常にあります。無数に流派が存在するのは、このためだと考えられます。』

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」  太字は筆者判断

        ー 続く ー  

   
 2017.05.06  ー空手とは何か(1)ー
   
 これまで沖縄空手家の「沖縄空手の真髄」・新垣清氏、沖縄伝統空手「手」Tiyの変容・野原耕栄氏を見てきたが、当然といえば当然の沖縄視点。では本土の空手家の俯瞰視、図は? 大学の准教授で心理学の博士でもある湯川進太郎氏の発刊されたばかりの「空手と禅」をひもといてみよう。
 平易で抑制された記述なので分かりやすい。禅問答はさておいても今の空手の理解を深める一助となる書。

<沖縄と日本と空手>

 『空手は、沖縄の伝統的な身体文化です。明治期に徐々に体系化され、戦前の昭和期に日本本土に紹介され、伝播しました。本土では主に大学を中心に広まり、戦後は、スポーツとして発展しました。現在では、主に「スポーツ空手」の愛好家が世界中に数多くいます。このように本土や世界でスポーツ化が進んだ一方で、戦後の米国統治の中、沖縄では、空手が純粋培養され、かっての本来のかたちを色濃く残した空手が継承されていると考えられています。
 ただ実際には、ガラパゴス的進化の結果、独特の現在の『沖縄空手』が形成された可能性も捨てきれません。つまり、明治期に体系化される以前の空手(すなわち「手」。空手はその昔、沖縄では「手」と呼ばれていました)。少なくとも明治当時の空手が一体どのようなものであったかは、口伝による身体文化のために、今となっては客観的な検証は難しいのが現実です。そのため、果たして本当にかっての本来のかたちを色濃く残しているのかどうかは定かではありません。ただ、いずれにせよ、少なくともいえることは、運良くスポーツ化を免れたが故に、相対的に武術として維持されているだろうと考えられるのが、「沖縄空手」ということになるでしょう。

 日本本土の空手を代表するのは、いわゆる試合を中心に捉えた「スポーツ空手」です。戦前戦後に大学を中心に広まった沖縄の伝統武術である空手は、本土ではことごとくスポーツ化し、現在の国際化に結びついています。国際化の前提はスポーツ化であり、スポーツ化なくして現在の国際的普及、少なくとも「空手」という名称の普及はありえません。競技という分かりやすい枠組みがあるために、外国でも広く理解されうるものと考えられます。

 スポーツ空手は、いわゆる古流の沖縄伝統空手とは、技術的にも見た目にも異なります。また、大山倍達先生が創始した極真カラテも、全日本空手道連盟を軸にしたスポーツ空手と、技術的にも見た目にもまったく異なります。日本本土を経由して国際化した空手はこのように、様々な身体様式へと多様化しています。その一因は、スポーツ化(競技化)です。スポーツ化によって、武術そのものの本質は失われていきます。一方で、スポーツ化をあえて進めないことで、武術としての本質を維持することはある程度可能であると考えられます。本土における空手をいかに武術として維持するかは、スポーツ化をいかに避けるかにかかっています。
 先述したように、いわゆる「沖縄空手」と呼ばれる集合は、戦後のスポーツ化の影響を受けることなく、本来の武術としての伝統を維持したかたちで残っている空手として認識されています。そのため、世界中から、本来の空手を学びに多くの外国人が沖縄を訪れています。国際化したスポーツ空手ではなく、武術としての、あるいは、沖縄の伝統的な身体文化としての空手を学びたいという外国人が近年増えています。
 本来の空手を理解するための手がかりとして、「沖縄空手」というフレームワークのもとに、スポーツ空手と差別化し、空手を探求する。これは間違いではないですが、現在「沖縄空手」と呼ばれるもの、すなわち、沖縄県内に本部を構える沖縄の流派(ショウリン流、沖縄剛柔流、上地流の沖縄空手三代流派など)のみが、空手の本来性を内包しているかのような排他性は、誤解を招く恐れがあります。空手の本来性や本質を伝承しているかいなかは、地理的な特性に依存するものではありません。
 ただ、空手という身体文化を理解するためには、沖縄というファクターを抜きにしては不可能であることもまた事実です。沖縄の風土、沖縄の地理や気候、沖縄の踊り、沖縄の歌、沖縄の食べ物、沖縄の人の考え方など、沖縄の文化が複雑に入り交じって発展した武術が、空手だからこそです。したがって、空手は永遠に、沖縄的でなければなりません。その沖縄性を含めて理解することが、空手という武術を本質的に理解する手がかりとなります。その意味では、沖縄を実際に訪れて、沖縄の地で沖縄の空手を習う、というのは、空手という身体文化を学ぶ上で非常に重要かつ意義深いことだといえるでしょう。』

 順を追うが、流れから表題に触れることになったが、禅問答は敢えて避けるが思考の参考になれば幸い。

<空手とは何か>

 『では一体、そもそも、空手とは何でしょうか。空手とは、沖縄(琉球)の歴史の中で培われた伝統武術です。それは、徒手空拳で(すなわち近接距離で)効率的に敵を制するために必要な身体捜査の技術を、呼吸と立ち(重心)と締めを重視した「形」の稽古を通して体得することを目指した鍛錬の体系です。同時に、今ここに在る身体と呼吸への意識を高めることから、稽古そのものがそのまま禅として位置づけられます。つまり、沖縄伝統の身心修養法、ということになります。 したがって、空手の本質(神髄)とは、端的にいえば、空手的身体の体得という作業を介して、禅的境地に至ることではないかと考えられます。ただ、空手でなくとも禅的境地に至る道はあります。武道でなくても至る道はあります。すなわち、あらゆる「道」とは、禅的境地にアプローチする方法論であり、空手はその一つということになります。
 ただ、禅的境地に到達することを空手の「目的」とした瞬間に、それは禅ではなくなり、空手の本質から遠ざかります。禅とは、ただ在ることであり、何かを目指すものではありません。したがって、空手とは、ただ空手です。同じように、柔は柔であり、剣はただ剣であり、弓はただ弓であり、茶はただ茶であり、華はただ華であり、書はただ書です。』

<空手と手>

 『空手には、大きく、首里手と那覇手があります。日本と中国の間にあり、政治的にも文化的にも両者の影響を様々に受けてきた沖縄(琉球)において、独自に構築され発展した伝統文化は、かって「手」と呼ばれていました。そして特に首里地方で発達した手は「首里手」、一方、那覇地方で発達して手は「那覇手」と呼ばれました。現在でも、沖縄の空手家の中には、これらの名称をあえて使う人もいます。 「空手」という名称は近年与えられたものですが、沖縄の伝統武術を表現する総称として、また現代における名称の普及率を考えると、使い勝手は良いでしょう。しかし、むしろ厳密には、「手」もしくは「首里手」「那覇手」という表現を用いた方が適切かもしれません。その理由は次のようなことにあります。
 まず、本土普及時におけるスポーツ化によって、「空手」というと、どうしてもスポーツのイメージが強くなります。その意味でも、本来の沖縄伝統武術を指す場合は、「手」(ときに「沖縄手」という人もいます)、もしくは、個別的具体的に「首里手」「那覇手」と称するのが適しているかもしれません。また、近年、沖縄では、スポーツ空手とほぼ同義の名称としての「本土空手」と区別するために、前述した「沖縄空手」という概念を提唱しています。しかし、空手は本来、沖縄の伝統武術なので、「沖縄空手」といういい方は、重複表現であるといえなくもありません。また、沖縄の空手の中にも試合を導入している流派や道場があります。沖縄空手の三代流派に数えられる上地流は、競技(組手試合や形試合)を導入しています。このことを鑑みると、「沖縄空手」という言葉は、決してスポーツ空手の対義語ではありません。逆に、たとえ本土の空手であろうとも、スポーツ化していない本来の「手」を追求している団体はいくつか存在します。
 だとすれば、「沖縄空手」という表現は、スポーツ空手の対義語ではなく、あくまで本土空手との弁別を図るためであって、もし仮にスポーツ空手との明確な峻別を求めるのならば、その場合は「武道空手」もしくは「武術空手」という表現が妥当なのかもしれません。しかし、これも厳密にいえば、空手は本来、武道・武術なので、「武道空手」「武術空手」といういい方も、重複表現であるといえなくもありません。
 このように、「○○空手」のような形容は、多重な意味を含んでしまいます。そのため、沖縄で構築・発展した徒手空拳の伝統武術のことを指す場合は、かってそのように称されていた通り、「手」もしくは「首里手」「那覇手」と称した方が良いのかもしれません。「スポーツ空手」や「本土空手」の対義として、しばしば「武道(武術)空手」や「沖縄空手」と表現されることは今述べた通りです。この際、後者を「古流(古伝)空手」といういい方をする場合もあります。これは、明治以降に体系化され発展した現代武術に対して、古来より伝承されている諸武術群を「古武術」「古武道」といういい方で括るやり方の援用かと思われます。
 いわゆる古流柔術や古流剣術などの古武術は一般的に、設定している場面や背景が確かに古い(例えば、甲冑を装着した武士同士の戦闘場面の)ために、現代的ではないという意味で「古武術」といえるでしょう。一方、「手」が設定している場面や背景、すなわち、形が形成される上での場面や背景は、一部古いものはあるものの、しかし、「手」の場合は、徒手空拳の武術ゆえに、現代でもそのまま応用可能です。このように考えると、本来の「手」のことを「古流空手」と称するのはあまり適切とはいえません。だとすれば、やはり、沖縄発祥の伝統的な徒手空拳の武術のことをいう場合に、「○○空手」と無理に形容するよりは、「手」もしくは「首里手」「那覇手」と称した方が、誤解や間違いが少ないように思えます。』

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 続く ー  

   
 2017.04.11  ちょっと寄り道 『漫画の効用』
   
<旧約聖書とギリシャ神話>

 欧米の文化を理解するには、「旧約聖書」と「ギリシャ神話」の知識が欠かせないといわれているが、とっておきの話。

ー漫画の効用ー

 時系列的に俯瞰視できる良書がある。それは里中満智子の漫画だ。読みやすく頭の中での今までの知識の羅列が、すっきり整列する。もうダビデ、モーゼ、ヘラクレスはと、年代・考証に迷うことがなくなること請け合い。
紹介する。

「旧約聖書」①~③
①創生期
第1章 天地創造
 2  アダムとエバの現在
 3  カインとアベル
 4  ノアの箱舟
 5  バベルの塔
 6  アブラハム
 7  ソドムとゴモラ
 8  イシュマエル
 9  イサクの犠牲
 10 イサクとリベカ
 11 エサウとヤコブ
 12 ヤコブとラケル
 13 イスラエル
②創生期(続)出エジプト記 レビ記 申命記 ヨシュア記
 14 ヨセフ
 15 タマル
 16 飢饉
 出エジプト記
  1 モーセ誕生
  2 若き日のモーセ
  3 モーセとアロン
  4 ファラオの抵抗
  5 過ぎ越し
  6 エジプト脱出
  7 十戒
 レビ記 民数記 申命記 ヨシュア記
  1 聖櫃
  2 カナン
  3 エリコ
③ヨシュア記(続)土師記 サムエル記 ヨナ書 ヨブ記 ダニエル書
  ヨシュアキ(続)
  1 土師たち
  2 ルツ
 サムエル記
  1 サムエル
  2 サウル
  3 少年ダビデ
  4 ダビデの苦難
  5 ダビデの栄光
  6 アブサロム
 列王記
  ソロモンの栄華
  ヨナ書
  ヨブ記
  ダニエル書 異郷にて

  


「ギリシャ神話」①~⑧

①オリュンポスの神々
➁アポロンの哀しみ
③冥界のオルフェス
④悲劇の王オイディプス
⑤英雄ヘラクレス
⑥激情の王女メディア
⑦トロイの木馬
⑧オデュッセウスの航海

  


なんと
「名作オペラ」①~⑧まで
①ニーベルングの指輪上
 ・序章 ラインの黄金
 ・第一夜 ワルキューレ
➁ニーベルングの指輪下
 ・第二夜 ジークフリート
 ・第三夜 神々の黄昏
③椿姫
 ・アイーダ/リゴレット/マクベス
④カルメン
 ・トリスタンとイゾルテ/サムソンとデリラ
⑤トゥーランドット
 ・蝶々夫人/ラ・ポエーム
⑥フィガロの結婚
 ・魔笛/ドン・ジョバンニ/セビリアの理髪師
⑦サロメ
 ・ナクソス島のアリアドネ/こうもり/ナブッコ
⑧トスカ
 ・マノンレスコー/ローエングリン

   

 深い造詣がなくとも楽しめる。あらたに購入する必要はない。各地区の図書館に今や借りる人も少なく蔵書されている。

   
 2017.03.28  ちょっと道草 幕末の『剣道』
     
 庶民が道場に通い剣術を学ぶようになったのは、江戸も幕末近くになってからです。 江戸中期までは、「百姓や町人が武術を習うのはよろしくない」という禁令が出て いました。
 禁令が緩んだのは、直心陰流の長沼四郎左衛門が小手や面などの防具、竹刀を 開発してからで、それまでの木刀での練習のように、怪我をする危険が少なくなった からです。槍の練習も、先に詰めた布をつけた「たんぽ槍」が使われるように なりました。
 剣術がスポーツ化することによって、爆発的な剣術ブームが起こります。 天保以降には道場が乱立し、数千の流派ができました。
 江戸の三大道場といわれたので、千葉周作の「北辰一刀流」、斎藤弥九郎の 「神道無念流」、桃井春蔵の「鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)」です。
 千葉周作は馬医の次男、斎藤弥九郎画は郷士の長男で、千葉周作の師匠で あった浅利義信は、はじめあさりの行商をしていました。
 そういった人々が新しい剣術を開発したのですが、その中でも、千葉周作は とてもわかりやすいシステムを作り上げました。めきめき上達するマニュアル化 されたトレーニング法が評判を呼び、全国から人が集まりました。
 道場の収入の多くは、段位を取っていく度にされるお礼です。それまでの 道場は、十段階以上の段位がありましたが千葉道場には三つしかありません。
 それを超えれば最終の免許皆伝です。他の道場と比べて三分の一以下のお金で 習得できたので、よけいに人気が出ました。
 最終的にはお玉が池という一等地に、後楽園球場と同規模の道場ができました。 門弟の数は、じつに三千五百人となり、その中から、坂本龍馬や清川八郎など、 幕末の志士が出ることになります。
「お江戸でござる」杉浦日向子より


「北辰一刀流千葉道場の総師範・千葉 周作」


 北辰一刀流剣術の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤弥九郎」・「格の桃井春蔵」 とならんで、「技の千葉」と称された。この三道場は江戸の剣客を三分し、幕末に 於いても大きな影響力を誇った。

 天保三年(1835年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩隠居の徳川斉昭の招きを受けて、 剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。

 周作の家族として、弟の定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称された。
次男の栄次郎と道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。

 その門下からは幕末の重要人物を多数輩出しており、主な人物として浪士組幹部の 清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられる。なお坂本龍馬は 定吉に師事しており、直接の師匠ではない。
 処世術に長じた剣士だったという。
<ネット検索>

   
 2017.03.19  「掛け試し」(kakidamishi)③
 
 <本部朝基>

 グスク時代の戦の殺しのわざとして琉球で生まれた「手」(Tiy)は平和な 守礼の国となってからも、一撃必殺の技を磨くために古来から「カキダミシ」 という形で継承されていたのである。しかし、それは、スポーツとして試合が おこなわれるのとは異なり、武士が自ら腕を試す為の試合であった。沖縄の 「手」(Tiy)は単なる体操ではなく、一撃必殺の武術であることを証明した 人がいる。本部ザールーと呼ばれていた本部朝基である。

 大正11年11月、京都市武徳殿で拳闘対柔道の試合が行われた。 その様子が大正14年の「キング」の9月号に掲載されている。以下 「キング」の記事を要約して紹介する。
大見出しが「肉段相打つ 唐手拳闘大試合」となっている。そして小見出しに 「不思議な田舎爺」となっている。その内容は以下の通りである。

 試合の真っ最中、突然楽屋を訪れたのは、見るからに田舎爺らしい一人の 男で、「飛び入り試合をさせてください」と来た。「なに、飛び入り?」監督は 少々年を取り過ぎた男を変に思いながら、「あなた柔道家ですか」と聞いた。「いいえ」 「ではなんですか」「何でもありませんが、あんな試合なら私にも出来そうです」 と声と上げた。「でも君、柔道でも拳闘でもないと言うんだね。まさか田舎力士 じゃあるまいね」「まあ、何でもいいから飛び入りしたいと言うからには、 気違いでない限り多少の武術の心得はあるんだろう。では、やらせることにします。 が、試合の規則はご存じなんでしょうね。」「知りません」と爺が答えた。 「蹴り手と拳の突き手、打ち手は禁じられています」「平手は?」「むろん構いません。 ただ、拳がいけないのです」聞いていた爺は微笑を浮かべつつ「やりましょう」と いった。「やるはいいが、何を着てやります?着物は?」「このままで構いません」 「このまま?そのままじゃ具合が悪い。それじゃ、柔道着を着てもらいましょう。」 いわれるままにこの男は着物を脱いで柔道着に着替えたが、裸になってみると 驚いた。その全身の筋肉巌の如く、殊に節くれ立った両腕は、五十歳以上に 見える面貌とは似てもにつかない筋肉の隆起であった。「あなたは拳闘と試合を するのですか、それとも柔道とやるんですか。望みはどちらですか。」「相手は どちらでも構いません。」結局のところ、その相手は拳闘家、アメリカのチャンピオン、 ジョージであった。長身肥大の名拳闘家ジョージ対身長五尺四寸余、肥満して いるが見たところ五十二、三歳の朴訥漢である。「えらい年寄やな」 「グローブをしてないぞ。柔道家かな」と観衆はささやいた。観衆はガッカリして 「爺さんしっかりやれ」と冷やかしていた。
 二人の試合は始まった。ジョージは言うまでもなく突きの構え、両手のグローブを 小刻みに動かしつつ突き手の弾みをくれているが、一方の本部と名のる朴訥漢は 左手をば遠方を眺めるが如くかざし、右手を右頬に近くあげてジッと腰を落とした 身の構え。「ハテ、なんですやろ。踊りみたいにして」「分からん。剣舞みたいな 手つきや」「怪態なものが飛び出したものや」などと観衆はとりどりの評。 楽屋の人々も思わぬ飛び入りに、首を出して見ていたが、その中の柔道家が 本部朝基の構えを見ているうちに思わず「アー唐手!」と叫んだ。今日といえども 唐手と言っただけでは、どういう武技であるのか、まだ広く世にしられていない に相違ない。観衆が剣舞みたいだといった姿勢は、これぞ唐手のおける小林流、 ピンアン四段の構え。左手に敵の攻撃を受け払うが否や右手の拳弾を食わすもの。 ぴたりと構えたその態勢にみじんの隙もなく、老人めいたその面貌は、みるみる 緊張しきって、さながら別人の如くに輝いていた。「油断はできんぞ」先に 「唐手」と看破した男はそう叫んだ。「飛び入り、しっかりやれ」「ジョージ、 行け!」しかし、ジョージも音に聞こえた拳闘家。敵の構えに打ち込むべき寸毫の 隙もないのをみると、これは、と驚いたか、なかなか攻撃しない。隙があれば 飛びかからんとしているが、敵はピタリと構えたまんま、微動だにしない。その体勢に 圧せられたかジョージは刻々に息をはずませ、ハッハッという息づかい。このまま 疲れてしまってはたちまち敵に乗じられる。この上は誘い出しにかからねばならない、 と決心したか、拳闘一流の誘い、両手をサットと鬱しつつ打つがごとく、突くが 如く小刻みに動かしながらじりじりと攻め寄せていく。が相手はその誘いに乗って こず依然として微動だにしない。いよいよ業を煮やしたジョージは、「エーイ、 これまで!」とばかり思い切って一歩二歩進み寄ると見る間に、ヤッ!と身を すくめて遮二無二の突き。敵の面部めがけて巨弾の連発。アワヤと思う一瞬、 パッパッと閃く本部の平手、初めの通の体勢さらに崩さず小手先軽く難なく ポポーンと跳ね返してしまった。「何を!」今はジョージも捨て身。突きに 打ちに巨弾という巨弾に打ちかかっていったが、相手はさらに動ぜず、左手一閃、 ポポーンと跳ね返され、払いはじかれて歯がたたない。が、ジョージもさるもの。 危ないとみ見るやサッと身を翻し元の位置、さらに敵の虚を伺っていたが、 ハッハッと彼にも似合わぬ焔のような息づかいは、余程に疲れたものと相見えた。 これにひきかえ相手の本部は依然たる体勢、動ぜざること山の如く、その息遣いも 極めて静かだ。「ジョージ、どうしたんだ」楽屋の人々も気が気でない。天晴れ、 一団の御大なるジョージともあろうものが、この一老漢に手が出ないとは どうしたことだ、と「遠慮は無用。いけいけジョージ」と躍起となる。 ここにジョージは一気に勝敗を決しようと決心したもののごとく、やおら 右手を大きく開いたかと思うと、ツツツ、と二三歩、大股に詰め寄りざま、 面部の撃ち手、渾身の力宙にウナッて吹っ飛んだ。「アッ!」本部の面上微塵と 思いきや、シャッとして鳴る鉄腕の響き。本部は左の平手に振り飛び来る敵の 右手を一段強く跳ね返す、途端に伸びる腰の構え、それと間髪を入れずに 右の平手、電光の如く突き出せば敵の面上喝として声あり。アッと言う間に、 ジョージは口鼻の間を、平手にズズーンと突き上げられた。平手とはいえ、 口鼻間の急所。ジョージの体は、次の瞬間、さながら木刀のごとくドタリと 打ち倒れてしまった。観衆は思わず「ワッ!」と声を上げたが、ジョージは 倒れたまま動かない。「それ介抱」楽屋の人々は、その声に走り出て、 悶絶したジョージを担ぎ入れた。「恐ろしい爺やなア!」観衆はあまりのことに 呆気にとられ、二の句がつげなかった。

 ーこのとき本部朝基がとった戦いの構えは「ピンアン四段」であるー


       出典「手」野原耕栄著


   
 2017.03.12  「掛け試し」(kakidamishi)➁
   
<東恩納完量>と<喜屋武朝徳>

 明治30年、那覇手の東恩納完量が45歳のある夜、那覇市の辻町(遊郭) の馴染みの店で一杯飲んでほろ酔い加減で帰宅の途中に、3人組が完量に 「掛け試し」を挑んだ。「東恩納の武士タンメーか」と呼び止めた3人組の 真ん中の大男がいきなり完量の金的めがけて蹴ってきた。とっさに後ろに 身をかわした瞬間、完量の左廻し蹴りが相手の右上腕に炸裂した。 一瞬の出来事で、大男は、「ウ・・・!」と小さなうなり声を上げ、 再度体制を立て直そうとして、右腕を引こうとしたとたん「ギシッ」と いう音とともに激しい痛みが大男を襲った。男は完量と向かい合ったまま 必死で立っているにいたが、やがて冷や汗と嘔吐とともに気を失いその場で 崩れ倒れた。残りの2人が大男が死んだかと思って抱きかかえているのを 横目に、「急所ははずした。心配いらない」と言って立ち去った。 二人はホッとして「ありがとうございました」と完量に礼を言った。 大男の上腕骨は骨折していた。二人が完量に礼を言ったのは訳があった。 もし、完量が本気で男の右中段の急所に蹴りをいれていたとしたら、 2週間後又は1月以内に肝臓破裂の病気で死ぬ運命にあったからである。 昔の武士は、自らの拳の当たり具合によって、相手がいつ死に至るかを 予期していたと言われている。

 「カキダミシ」は「手チカイヤ」にとっては避けて通ることの出来ない ものであった。したがって、昔の武士達は手を習い、だんだん強くなって くるといつ何時「カキダミシ」の相手をされるかわからないこともあり、 他人に知られないように極秘に「カキダミシ」の「手」(Tiy)を鍛錬した のである。そして、武士達は常に闇夜の道を歩くときは心していたもので あった。首里手の野原薫範士は自分の師匠である喜屋武朝徳の逸話を次の ように語っている。

 喜屋武朝徳は、嘉手納村に住んでいて、当時の嘉手納農林学校の空手師範 であった。空手部の稽古が終わると喜屋武師範はいつも近くの風呂屋で風呂に つかるのが楽しみであった。門弟の野原薫はよく、風呂場で師範の背中を 流す役を任された。「喜屋武師範は小柄であったが体は筋肉が盛り上がり、 引き締まっていて特に脇腹の骨格に付いた筋肉は波打っていた。肩の筋肉は 意外にも柔らかく背中の筋肉は筋を束ねたように固いものであった。しかし、 鍛え上げられた筋肉を覆う肌はつるつるとして若々しい生気がみなぎって いた。」と回顧している。
 毎日突かれ・蹴られ・叩かれ・打たれてこのような体が出来上がったので ある。さらに野原薫範士は次のように話された。喜屋武朝徳は、馬車を引いて、 ヤンバルと呼ばれている沖縄本島北部の国頭、名護、本部あたりで薪を拾い または仲買してそれを那覇の町で売りさばくという仕事をしばらくやって いた。ある時喜屋武朝徳が馬車を引いて那覇までやってきた時に、数名の 者に囲まれた。囲まれたというより、師範の行く手の道路上に横一線で 座り込んでいたのである。喜屋武朝徳は、沢山の薪を積んだ馬車を止めて、 「通してくれないか」と言ったが、「通りたかったら我々を力ずくで倒して から行くがいい」というのである。喜屋武朝徳はここでいざこざを起こしたら せっかく何日もかかって運んできた薪売りの目的が果たせなくなる事を思い、 仕方なく脇道の方に馬車を方向転換し回り道をしようとした。そうしたら 男達が前方に立ちはだかったのである。そして、そのうちの一人がいった。 「君は、手を使うチャンミーガーだろう。君が本当に強いのかどうか カキダミシをしたい」。喜屋武朝徳は仕方なく馬車をそばに置いて広い ところにに移動した。体の大きいがっちりした男が最初にかかってきた。 カキダミシと言うからには、ちゃんとルールを守るであろうが、しかし、 どこの馬の骨ともわからない輩どもであるから、顔面と金的は油断できない。 構えからして、開手の中段構えからこれは那覇手に違いない。相手は 腕による攻撃防禦は得意である。相手が思ったとおり右手で突きを放った 瞬間喜屋武朝徳の前蹴りが相手の水月をぶち抜いたために相手は一撃で 呼吸ができなくなりその場でうずくまってしまった。
 次にかかってきたのは、やせ形の長身であった。手足の長い者との 対戦は常に間合いが重要である。相手の間合いに立たないことが大切で ある。間合い以上に離れるか又は間合いの中に入り込んで打ち込むかである。 相手は、どんどん間合いを詰めて丁度相手の間合いになった瞬間相手が 中段蹴りを入れてきた。喜屋武朝徳は相手の右足中段蹴りを自分の 右手で払い落しその瞬間相手の懐に入るや左の拳で相手の右脇腹を一撃した。
 相手は呼吸ができずにその場で倒れた。次に出てきたのは、小太りの 中肉中背である。相手は、なかなか仕掛けてこない。3名のうち最後に 出てきたということは、前の2人に対する喜屋武の動きと技をじっくり 見ていたに違いない。そして3人の内で一番強いに違いない。彼は、 喜屋武朝徳が攻撃するのを待っている。うかつに中に入ると危険である。 しかし、相手も動かないではいくら時間があっても足りない。早く 決着をつけて、那覇の町で薪を全部売りさばかなければならないのである。 仕方なく喜屋武は、自分から仕掛けた。ズズズと前に進んで右中段前蹴り を入れた。男は左手で払いすかさず右中段蹴りを入れようとした。しかし、 喜屋武の中段前蹴りは男の左手の払いにさわらずに、再度中段前蹴りが来た。 その蹴りは男の溝落ちに軽く入った。男は慌ててその足を払った。そのとき、 三度目の前蹴りが喜屋武の右足から繰り出された。男は今度はきれいに左手で 払った、と思った瞬間に左の顔面と耳をしたたか蹴られて倒れてしまった。 男は一度も攻撃を出す機会がなく倒されてしまったのである。それは喜屋武の 捨て技に騙されたからである。喜屋武の中段蹴りは2回とも捨て技であった。 それを防ごうと男が払った左手の動きを見ていたのだった。男の左手が お腹の真ん中まで下ろされ、上段ががら空きになっていることを一瞬見抜いた 喜屋武は三度目の前蹴りを出すかのような動きで男の左手を下ろさせ、 中段ではなく大きく開いて無防備となった上段の蹴りで決めたのである。 これが決め技である。捨て技と決め技をどこでどう使うかこれは高度な テクニックなのである。3名の輩をかたずけた喜屋武朝徳は何事もなかった かのように馬の手綱を引いて、那覇の町に向かった。 


   出典「手」野原耕栄著 


   
 2017.03.01  「掛け試し」(kakidamishi)①
   
<松村宗棍>

 琉球の「手」(Tiy)の中には、昔から「掛け試し」(kakidamishi)というのがあった。 これはいわゆる現代でいう実戦組手のことである。琉球の武士は「手」の鍛錬法として、まず「型」をやり、型をやりながら直接師範がお腹、足などの各部を突いたり蹴ったりして鍛える「当て身」をし、型の分解である「約束組手」をやり、実戦相手である「掛け試し」をして、最後に古武道棒、サイ、ヌンチャク、トンファー等をして 一連の稽古を閉めるのが習わしであった。このとき「掛け試し」は顔面をはずし、 金的をはずして相手に怪我をさせないことがお互いの暗黙の了解事項である。 しかも相手の力量に合わせて行い、相手に怪我をさせてはならないというのが 紳士協定である。これを必守できる者だけが道場において「掛け試し」が許されるのである。
 このように琉球においては、組手に関しては昔から実戦組手である「掛け試し」が 存在していたのである。この「掛け試し」は非常に危険であることから、門外では やっていけないと師範から強く禁止されていた。しかし、門外においても 「掛け試し」の試合は昔から数多く密かに行われていた。・・・

 拳聖といわれた松村宗棍の「掛け試し」は有名である。佐久田繁著『空手名人列伝』からその内容を一部紹介しよう。内容が多少異なるのは、他の長老から聴いた話が少し異なるからである。
 松村宗棍は首里城すぐ側の山川村で松村地頭職の家で生まれた。彼は「手」を< 佐久川寛賀の弟子真壁朝顕に師事した。いわゆる首里手小林流の継承者である。彼は後に首里王朝に入り、王様の護衛官になったのであるが、彼が若いころ、 与那原村に住む女武士ウメとの「掛け試し」の話は今でも語り継がれている。 与那原の地頭代の娘ウメはこれまで男どもを何人も倒し、敵なしであった。 もし彼女が倒した男がおれば、ウメを嫁にあげてもいい、という父の地頭代の 言葉とおり、そこら辺にいる男どもは相手にならなかった。その噂が松村の 耳に入った。松村は勝負することを決心し、「掛け試し」の日時と場所とを 友人に頼んでウメに申し込んだ。「掛け試し」は相当な自信が無ければ 仕掛けられない。道ですれ違いさま小手うちや肘打ちを仕掛けた途端に 相手の裏拳一発にやられて終わり、ということもある。相手が声をかけずに いきなり挑戦してくることもあり得るが、名乗りを上げての「掛け試し」の 場合は相手の力量が図られるので一発で勝負がつくことが多い。  「掛け試し」は誰にも見つからないように夜間行われるのが習わしである。 ウメは紫の布地で顔を包んだ忍びの姿で、もしかすると今夜で「掛け試し」は 終わりかもしれない、と思いながら試合の前の緊張感に包まれていた。 一方松村は、ウメの力は大の男3人を相手にするような剛腕であることを 考え、接近戦は避け早く掛り、一発勝負以外にない。女が大切にするのは 自分の容貌だから顔面を守るすべは研究しているだろうから、足技で勝負< しょうと考えていた。「ウメか」「ハイ。お待ちしておりました」 「たいそうな女サムレーとか」という挨拶を交わした後、「掛け試し」は 始まった。二人は構えて、次の瞬間、松村の廻し蹴りの右足が上がった。 と思うと同時にウメの左拳が松村の顔面を捉えた。ウメが左利きだとは 知らなかった松村はウメの左拳一撃を顔面に喰らい無惨にも後ろに突き飛ばされ 仰向けに倒れてしまった。ウメは松村が立ちあがって飛びかかってくる だろうと身構えていたが、そこで松村は両手をついて、参りましたと頭を 下げたのである。ウメは松村が頭を上げる前に姿を消した。「松村、敗れる」 という、この衝撃的なニュースは翌日首里中を駆け巡った。しばらくたって、 松村は地頭代の家ちまで出かけ、ウメに再度の「掛け試し」を申し込んだ。 今度は父親の地頭代が立ち会うことになった。二人は構えた。今度の松村は 慎重であった。ウメが右手を前に左手をあごに構えた瞬間、松村の右拳が ウメの左乳房を襲ってきた。ウメの左手が松村の突きを払った瞬間、松村の 突きがウメの右乳房を襲った。と同時にウメの右手の払いからの裏拳が 松村の顔面をかすめた。ほとんど相打ちである。しかし、乳房を打たれた ウメの動揺は大きかった。次も同じように乳房を打たれるのではないかと 追い込まれた状況でウメの首が凍りつき、呼吸が乱れてきた。それでも 降参しないウメを見て、松村が仕掛けようとした瞬間、地頭代の父が 「待て」「それまで。ウメの負けじゃ」といった。勝負に勝った松村は ウメと結婚した。そして、その後琉球王朝の役人になるための試験に20歳で 合格し、1813年第二尚王統17代王尚灝王の御側役となったのである。そして、 第18代尚育王、第19代尚奏王と三代に仕えた。

   「・・・」は中略   出典「手」野原耕栄著  


   
 2017.02.17  ちょっと道草<イザベラ・バードの「日本紀行」>
   
「日本紀行」と「江戸時代の遺産」

「小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、胸のへこんだ貧相な人々。身長は5フィート(約152cm)ないのです」。 これは『日本紀行』の最初の章に見られる日本人の体躯の特徴の一節。 イザベラ・バードが東京に訪れたのは1878年(明治10年)ちょん髷がざんぎり頭になったとはいえ、庶民の生活は未だ江戸時代の延長線上。19世紀の類稀なる女性旅行家のバードは、6月から9月にかけて東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅し、また10月から神戸、京都、伊勢、大阪をも訪ねている。 その旅行記が"Unbeaten Tracks in Japan"Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」・・邦訳「日本奥地紀行」)

通訳兼従者の伊藤鶴吉の金銭関係のこずるさを認識しつつも、有能さには感嘆し雇用できたことに感謝もしている。定期的に鶏を入手し栄養補給をしながら、感動と落胆失望を繰り返す道中。
とくに 山形県南陽市の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方を「エデンの園」とし、その風景を「東洋のアルカディア」と評した。
参考:置賜文化フォーラム

他方(たほう)
日光の北にある山間の集落について「不潔さの極み」と表し、「私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない」と阿賀野川の津川で書くなど、  日本について肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。


翻って
『江戸時代の遺産』のスーザンBハンレーの反論を引用してみよう。
「明治初期に日本にやって来た西洋人たちは、概して中流階級で裕福な家庭の出身であった。彼らは毎週風呂に入っていもし、ヴィクトリア朝の大きいが雑然とした家に住んでいた。彼らはよい食事をして。たいていの者は生活環境について、なにが正しく、文明的で、健全であるのかを非常に強固な意見としてもっていた。 不幸にも、日本の宿屋で寝床に虱を見つけた者もいたし、日本の食事が口に合わない者も、日本の部屋は何もなくて意心地が悪いと考えた人もいたのである。しかし、多くの記述で欠けているのは、翻って自分たちの国々に思いをめぐらし、同じような人々や環境と比較することである。西洋人は日本の食べ物に拒否反応を示したが、それは日ごろ食べ慣れたものではなかったからであって、それが不衛生のものだからではなかった。イザベラ・バードが、食べる気にならなかった食物や自分の持ち物をそこに置きたくないと思ったほど汚い部屋のせいで気分が悪くなったのは、アメリカ合衆国(9年後に訪れたシカゴの宿屋)においてであって、日本でではなかった。重要なのは、今日の工業化社会に比べて住宅、食物、衛生状態が多様であったことであり、また、自分自身の国とは違った別の国での状況に拒否反応を示したり、おぞ気をふるったりした旅行者は、単に自分自身の故国の社会にいた貧しい人々の悲惨な状況に気づいていないだけのことが多かった、という事実である。確かに日本は西洋とはたいへん異なっていたが、物質文明や生活条件の面では、必ずしも住みにくい社会ではなかったことは明らかである」

蛇足に
「貴族で生まれるならばイギリス、市民は江戸時代の日本」と江戸時代(末期)の良さを主張している著名なアメリカの女性学者と久しく言われてきたのがこのスーザン・B・ハンレー。意訳ではなく忠実に訳すると「1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないとすれば、私が裕福ならイギリスに、労働者階級なら日本に住みたいと思う」。ちなみに ハズバンドは日本人学者のおしどり夫婦。


   
 2017.02.12  組手と形(型)
   
 元々組手が主体だった本土の空手(沖縄は別)だが、宇佐美里香の世界大会の優勝の頃から、「形」が断然の人気になった。ユーチューブの普及が押し上げたとも云える。男性にはないあの切れとスピード。魅了された女子高校生が国士館に殺到し、空手部の補欠にも入れないくらい志望者があふれたと聞いている。 今までは、マンモス大学以外はようやく二けたの新入生が入り、二年生になるころには一けたに目減り(淘汰?)しているのが普通だった。が今や年によって波があるがオリンピックをひかえ極端ではないが空手人口の漸増がみられ、特に子供が増えたのは将来に向かっての楽しみになっている。

 発祥の地、沖縄では元来組手はなく型そのもの自体が組手(実戦)の技だとの考え方で、型中心に稽古してきたのだが、今でも全空連空手およびその規範を受けいれている団体以外は伝統を守っている。

 東京に目を移してみよう。大学空手は別として、実際には町道場はどうなのか。基本を覚え帯の色が茶色に変わる頃から、組手志向、形(型)志向、両用に分かれ始める。従来から男性は組手志向が多く、女性は形志向が多かったのだが、今は一概に言えなくなってきた。それぞれの考え方があり多様化してきている。中には段位に関心がなく試合にも参加せず稽古のみを信条とする輩もいる。

 組手の試合は6ポイントを先取した方が勝ち。形は審判の5本の旗の判定で多いほうが勝ち。すべてWKF(世界空手連盟)がルールを決め日本は追随している。空手も柔道と同じく欧州主導。とくにフランスの影響が強いと思われるが、国際柔道連盟(IJF)が以前、判定の「効果」を無しに今回は「有効」もなしに、またジュリー制度を強化したりころころ変わっているが、その影響下?今後WKFひいては日本の空手界のルールがまた変わる?ことが予測される。

最後に
「素振り三段」という言葉が剣道にあるが、基本の大切さは武道だけではなくどんなスポーツでも共通項。基本という公式を基に一次、二次、そして三次方程式があるのだが、練習生にとっては基本修得時の反復練習が一番きついと思われる。その峠を越せば花畑の裾野に辿りつけるのだが、おろそかにした者のその後の上達度に限界が出てくる。基本の裏付けがあってこそ、新しい技や高度の技が身につくものなのだ。

<参考>
〇形と型の違い
 辞書的には主にフォームや姿、目に見える形状のことを「形」、手本やパターン、タイプ、決まった形式が「型」です。
柔道も然りですが、剣道の影響が色濃いと考えられます。参考に

 「日本剣道形」
ウィキ

「 日本剣道形を学ぶ本当の意味」
Kendo World


〇柔道ジュリー制度
  ウィキ


   
 2017.01.22  ちょっと道草<ピグマリオン効果>
   
ー あなたがこれから出会う人はどんな人? ー

◎町の住人
ある町の入口に老人が座っていた。そこに、よその町から一人の若者(A)がやって来て、老人に話しかけた。

若者A:「私は、この町に引っ越してくることになりました。この町の人たちは、どんな人たちですか?」
老人 :「君が今まで住んでいた町には、どんな人たちが住んでいたかね?」
若者A:「自己中心的で不親切な人が多かったです」
老人 :「この町も同じようなものじゃ」

しばらくして、また、よその町から別の若者(B)がやって来て、その老人に話しかけた。

若者B:「私は、この町に引っ越してくることになりました。この町の人たちは、どんな人たちですか?」
老人 :「君が今まで住んでいた町には、どんな人たちが住んでいたかね?」
若者B:「親切でやさしい人が多かったです」
老人 :「この町も同じようなものじゃ」

数ヶ月が過ぎ、2人の若者は、それぞれ同じことを思った。「あの老人の言ったとおりだ。前の町も、この町もいっしょだ」。

                             参考ネット検索


   
 2017.01.18  <町道場ー考ー>
   
 空手を学ぶ場の主流は学連として組織化された大学空手部だが、 他に中高空手部、実業団体、官公庁、警察・自衛隊など、それに町道場がある。
 大学の空手部のほとんどが4大流派だが、他流派も同好会として 活動している例も少なくない。
 では俗にいう町道場は? 都下に700~800の道場があると推定されて いるが、その内、全空連に加盟しているのが約500道場。4大流派とその 系が主力。登録外は沖縄系や独自路線の道場。

 学校・職場・町道場とも分類できるが、十代後半から二十代前半に ドカ練する大学の層は厚く突出している。卒後恵まれた?職場の空手クラブ で継続できる人はなお磨きがかかり、主力メンバーとなり徐々に教える立場になっていく。とくに警察や自衛隊の猛者ぶりには目を見張る。当道場が参加する全空連の新宿大会の常勝組は警視庁・自衛隊それにマンモス大学の早稲田。 また「形」ではKARATEアンパッサダーの岩田樹里さん(慶應医学部)。 有級こそ形・組手の優勝もあるが、一般有段では決勝戦までなかなか辿りつけない。 シニアー(40歳以上)でようやく組手、形ともベスト3内の実績を間歇的に継続中。 毎春秋にチャレンジは続けている。

 大学空手部出身者。惜しむらくは卒後空手を継続するのはごくわずか。 あれほど情熱をもって鍛えた者が社会に出て、忘れたように仕事オンリーの世界。 空手が出来る環境にない限り継続できないし、その心の余裕もなさそうだ。 ようやく社会にも仕事にも慣れ自分の生活を見つめなおし、気持ちあらたに 空手再開するのが30代から40代。その受け皿になるのが町道場。 思い立ってそれから続けた人は生涯空手になるのだが、その数は 限られている。

 初心者にとっては流派などは判らないし関心も薄いが、経験者に とっては流派が違えば形が異なり練習方法も違う。自分のやった空手(流派) が一番という思い入れもあり、やりたくても今更、他流派(道場)に 行けない。 柔道・剣道と違って、空手は100から多くて200ぐらいの 流派があると推定されているが、身近に自分のやった流派道場があるか どうか。その点4大流派は恵まれているかもしれない。
 職場から近いか、住居に近いかまたはその通勤圏内にあるか、でないと 通いきれない。都心にしぼると6区(千代田区、中央区、港区、文京区、 新宿区、渋谷区)には、大学・官公庁。実業団体・警察/自衛隊は 十分過ぎるほどあるが、町道場は僅少。その多くはスポーツC、公民館、学校の 体育場を借りて稽古。 最低20畳ぐらい以上広さがないと道場として 使えない。都心から離れた郊外になると、それ相応の広さの道場が散在するが 都心では公共の建物を使うか事業的にやらない限り、経済的に存続するのが むつかしいのが実情。

 卑近な話に戻そう。練習生の話。やりたかった空手、学校時代に果たせずようやく社会人になって 初めて当道場の門を叩いた者の割合が6割。大学でやってたは2割、あとは 子供の頃か高校時代での経験者。性別は女性が4割。女性は初心者が多いが、 「形の演武に感動した・カルチャースクールにはない気合の世界に魅せられて・ 社会に出て継続できるスポーツを求めて」がごく最近の入門動機。 もちろん根底には健康志向、武道が故の精神力の強化の気持ちは強い。
 オリンピックの空手は全空連が主管するが、実際に参加できるのは 加盟している4大流派及びその系統。全空連は国(文科省・体協)が支援する 財団法人。実技の指導、審判、大会などは4大流派のそれぞれの組織から出ており、 ちなみに段位も3段までは4大流派の各流派から全空連公認段位に移行できる。 付言すると道場の会費以外に、流派の年会費、大きな金額ではないが全空連の年会費もかかる。  空手人口は100万人以上といわれているが、全空連に登録されている 人数は10年前は6万人程度の横ばいだったが、今はオリンピックのキャンペーンなどで 9万人を超え今や10万人?。すそ野の人口が多い証左であるともいえるが、登録に至らぬ人が多すぎる。ようやく全空連が全面的に空手界を主導し始めてきたといえるが、まだまだ課題が山積みのようだ。

最後に、 
 町道場は初心者が自分を鍛える垣根の低いKARATE登竜門であり、経験者の再開の 受け皿でもあるが、独自の文化をもっていることも然り。畢竟どこの道場でも 通じる共通項はー 継続は力 ーにつきる、である。


   
 2017.1.8  <オリンピックチャンネルに空手特集ページ>
   
たおやかな正月を迎えました。
新年も空手を楽しみましょう。

ー高野まひろちゃんー
 Mahiro Takano
https://www.olympicchannel.com/en/playback/genius-karate-girl-mahiro-takano/

ーKarate Olympic Channelー
 Karate
https://www.olympicchannel.com/en/sports/karate/

   
 2016.12.31  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容・最終章>
   
ーおわりにー <著者からのメッセージ>

 『世界の空手は、松濤館流、糸東流、剛柔流、和道流、沖縄小林流(系)、 沖縄剛柔流(系)及び上地流(系)から成り立っている。松濤館流は船越義珍、 糸東流は摩文仁賢和、剛柔流は宮城長順、和道流は船越義珍の門弟大塚、 沖縄剛柔流は宮城長順、沖縄小林流は知花朝信、上地流は上地完文によって 命名されたものであるが、それらの流派の根幹を造った人物はすべて 沖縄人なのである。従って、どの流派の空手家であっても必ずたどり着く のは沖縄なのである。
 空手が沖縄から日本本土に渡って85年、世界に伝播して50余年である。 その間空手の姿は大きく変貌した。7世紀から12世紀にかけて、琉球に おけるグスクの戦いの一撃必殺を是とする武術は、時代が変わり柔道の国 日本に伝播して競技用空手となり、そして海外に伝播して現在は西洋の スポーツと化している。今や、空手は日本の空手ではなく世界のKARATEと なって一人歩きを始めている。スポーツは西洋の物であり、スポーツと なった空手はもはや西洋の物である。だから、日本が作った空手の 競技ルールを全て欧米人によって変更するし、オリンピック種目にも なろうとしているのである。
 今や、日本人から空手を習うことなど一つもないと欧米人は思っている。 そういう人でも何故か沖縄には是非行きたいと思う。何故だろう。 人間は自分のルーツを探し求める習性がある。自分という人間は何者か、 という命題を背負って人間は死ぬまで自分を探し続けている。空手も 自分探しの旅の一つである。自分を知れば知るほど自分のルーツを 必死で探そうとする。と同じように自分が大事にしてきた宝石のような 空手についてもそのルーツを明らかにしないと気が済まなくなる。 自分のアイデンティティ-だからである。かくして、世界の空手家が 沖縄の壁にぶつかって、沖縄をこの上なく愛するようになるのである。
 
 世界の空手家がいつも抱いている疑問、例えば沖縄空手とは何か、 沖縄伝統空手とは何か、そしてそれは本土日本の空手や世界のKARATEと 何が違うのか、という根本的な問題について、少しでも理解して もらいたいという気持ちからこれを執筆した。沖縄伝統空手は皆さんの 空手より美しくはない。ダイナミックでもない。その現実を見て失望 する人もいるかも知れない。しかし、皆さんが大事にして磨きをかけた 宝石の原石が沖縄伝統空手である。質素で、素朴で特にきらきら輝きも しない。単純な線をただ描くだけの代物である。皆さんの大会に出場 しょうものなら当然に最下位になるであろう。そのような沖縄空手を 見てもらいたいのである。皆さんの空手の源流だからである。それは 皆さんが好きだとか、嫌いだとかと言う以前の問題であり、自分が 生まれるとき自分の父や母を選べないのと同じである。KARATEをする人は、 一生沖縄という宿命を背負って自分探しの旅を続けなければならない。  幸いにして、沖縄にたどり着いた世界の空手家のほとんどが沖縄の事を 好きになって帰って行く。ありがたいことである。

 空手は今空前のグローバル化が進んでいる。空手を世界に広める ことと沖縄伝統空手を守ろうとすることは相反しないか。この点に ついて、琉球大学名誉教授・米須興文氏の次のような意見に耳を 傾ける必要がある。
「グローバリズムは普遍化を目指すものであるのに対し、マルチカルチャリズム はそれぞれの文化が主張するものだ。この二つは相容れない筈だが、 グローバル化を目指しながらも、沖縄の土着主義を唱えてしまう。 この矛盾を意識しておいた方がよい。」と強調する。「文化とは そもそも閉鎖的な体系だ。沖縄文化はすばらしい、21世紀は輝かしい< と考えるのは結構だが、閉鎖的なものがどうして輝かしいものになるのか。 土着にこだわるというのは閉鎖的な殻の中に閉じこもること。沖縄の 芸能が世界で大喝采を浴びているが、微妙な問題とし意識しておく 必要がある。」と話し、土着と普遍の相違を意識しないまま、沖縄の アイデンティティーを論ずる傾向に注意を促している。
 真理というのは、時の流れとは無関係である。沖縄の空手には、 時の風雪に耐えてきた真理があるはずである。現在をみて、過去を 振り返ってみるという脚下照顧の精神を求めてきたが、沖縄の空手と 日本の空手、世界の空手の間には歴史の流れの中で随分と違いが生じて きているのである。沖縄空手には源流である沖縄空手としての 時代的に揺るぎのない真理があるはずである。先人が創りだした本源的な 沖縄空手の型にこそ、空手の真髄が宿っている。それが揺れ動いて 変形現象を示しているのが、現在の空手である。沖縄には依然とし 空手が誕生したグスク時代から、琉球王朝期、明治、大正、昭和期そして 今日まで時代を乗り越えて伝承された昔からの琉球の空手「型」が 残っている。これこそが、世界の空手家が着眼すべき点ではなかろうか。  空手の源流である「手」(Tiy)の発祥地である沖縄に来て、空手の 先人達が歩いた道を歩き、海を眺め、水を飲み、空気をいっぱい 吸い込んだ時そして沖縄の小さな町道場のよれよれの先生による 素朴な沖縄伝統型の稽古に触れた時にきっと君が探していた 本当の空手が見えてくるのではないでしょうか。』

           - 終わり -

   
 2016.12.24  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(16)>
 
 ー2つの世界規模の団体(空手組織)ー

<国際空手道連盟>(ITKF)
 『1928年、東京生まれの日本人西山英峻氏が率いる世界的規模の団体、国際空手道連盟がある。西山は、拓殖大学出身で沖縄の空手家、富名腰義珍から松濤館で唐手の指導をうけた全日本学生唐手連盟の発起人の一人である。また、日本空手協会の設立発起人の一人で理事の一人である。ITFKの大きな特徴は、空手を競技としてではなく、武道、実技として捉えている点である。従って、武道空手においては、試合による勝ち負けは無いわけで、あくまでも日頃鍛錬した結果の発表会として捉えているところである。伝統空手の型をほとんどすべて幅広くその指定競技用型としている点も特筆される。
 ITFKが指定している型は、アーナンクー、パッサイ大、パッサイ小、糸洲のパッサイ、松村のパッサイ、屋部のパッサイ、チンティ)(チンテ)、エンピ、ワンスー、ガンカク、チントー、五十四歩(ウーセーシー)大、五十歩小、半月(セイサン)、ジーイン、ジーオン、ジッテ、観空(クーシャンクー)小、観空(クーシャンクー)大、カンシワ、クルルンファ、二十四歩(ニーセーシ)、メイキョウ、ローハイ(初段、二段、三段)、サイハー、サンセール、セーサン、セイエンチン、セイパイ、シンソーチン、ソーチン、スーパリンペイ(ベッチューリン、百八歩)、ウンスー、ワンカンがある。
 これは、沖縄伝統空手(小林流・少林流・松林流・一心流・沖縄拳法など)及び那覇手の型の多数を包含している。しかも、沖縄の首里手の型をそのまま受け入れている。
 これに対し、全空連は独自に指定形なるものを8つ創作した。しかもその型は沖縄源流の型を大きく変形して作った型でオリジナルではない。その8つの型をしなければ予選を勝ち上がれないのである。最近ルールを改正し、第二指定形8つを追加している。このことから、ITFKの方がより沖縄空手のオリジナル型をより忠実に継承していることが理解できる。このことがITFKが世界空手連盟(WKT)や全日本空手道連盟と大きく異なる点である。
 ITFKの空手試合に対する態度もWKFや全空連と格段に異なる。WKFや全空連は、空手を競技として捉え、スポーツとしての心、技、体を要求する。つまり、勝ち、負けのルールを作りその競技に勝つことを絶対是とする。しかし、ITFKは空手の試合を勝ち負けとしては捉えていない。つまり、試合は日頃の技の鍛錬の一過程としてのみ捉えるのである。試合も日頃の練習の一過程に過ぎないのである。必ず試合に勝とうとか、勝てば賞金が貰え、有名になり、マスコミに取り上げられ、有名人になり更に金持ちになるような商業主義は全く考えていないのである。スポーツは得てして商業主義である。しかし、ITFKは商業主義を全くとらない。金のために、有名になるために空手をやるのではなく、あくまで自己の精神と肉体の鍛錬のために行う武道空手である。これは沖縄伝統空手を指導している沖縄の小さな町道場の鍛錬精神に通じる。

 空手界の実情として、日本国内では、現在文部科学省認可の全国規模の公益法人は(社)日本空手協会(昭和32年認可)と(財)全日本空手道連盟(昭和44年認可)の2つの団体である。
 そのうち、日本空手協会は競技団体ではなく実技団体といわれる。その組み手も、体重無差別・1本勝負である。
 それに対し、(財)全日本空手道連盟は競技団体といわれ、その組手は体重別、ポイント制のスポーツ競技である。それが、世界的に見れば、国際伝統空手連盟(ITFK)と世界空手連盟(WKF)の相異点となって現れている。

<世界空手連盟>(WKF)
 世界空手連盟・WKFは105ヶ国が加盟する世界最大の空手組織である。このWKF設立に至るまでの道のりは1961年ヨーロッパのフランスから始まった。それまで空手はヨーロッパにおいては他国と同じように、1950年代日本空手協会・JKAの主導によって多くの国に紹介された。このJKA協会は、空手の指導はするものの国際空手連盟などの組織についてはあまり熱心ではなかった。1961年、フランスの空手4段、ヘンリー・プリー氏によって数百名の黒帯が誕生し、1961年から63年にかけてヨーロッパ空手道連合が立ちあがった。それはフランス、ベルギー、イキリスであった。1963年に第一回ヨーロッパ会議が開催されて7ヶ国が参加した。イタリア、ベルギー、スイス、ドイツ、イギリス、フランス、スペインである。この国を中心にして空手ヨーロッパ会議・EKUが設立されたのである。これが後の世界空手連盟・WKFの核になった。1964年に第二回会議を持ち、レフリーの審判の統一を図った。 ここで重要なのは、審判の技術指導者として、日本空手協会の高野、山崎、富山、鈴木、望月、高見沢等の各氏の指導が不可欠であったことである。1965年には第3回のヨーロッパ会議を開き、新たにオーストリア、ユーゴスラビア、ポルトガルが加わった。こうしてEKU・ヨーロッパ連合が形成されたのである。
 そして、 第一回ヨーロッパ選手大会が1966年5月、パリで開催された。テレビで放映され、大成功であった。しかし、試合があまりにも激しすぎて顔面のけが人が続出した。各国の審判が様々な意見で激突した。イタリアの審判はもっとコントロールして当てないようにすべきだと主張した。
 しかし、イギリスの審判は、空手はダンスではない、ある程度ハードでなければならないと主張した。技術指導員に任命された日本の鈴木と望月は、怪我が多い理由について、選手がブロックをしないで、ただ攻撃をするためだけに敵に対して突っ込んでいく、このことが怪我が多い原因であるとして、もっと防禦の練習を指導すべきとした。そして、毎年審判の講習会を実施することとした。戦いは個人戦と団体戦であった。
 1968年にはアイルランド、スコットランドが加盟し、同年5月に第二回ヨーロッパ選手権大会がパリで開催された。技術指導員として、和道流の鈴木、松濤館の金澤が任命された。形の競技がスタートした。1968年から国際審判員の制度をスタートさせ、受験資格を初段以上、21歳以上、50点以上とした。女性の審判が誕生した。1969年にアフリカ連合が誕生しつつあった。国際審判員の制服が正式に決まった。1970年EKUのデル・コート会長は今や国際空手連合を誕生させ、パリにおいて第一回世界空手選手権大会を開催すると発表した。すると、同年全日本空手道連盟の笹川良一会長がデル・コート会長に会うためにパリにやってきた。そして、彼は提案した。国際空手連合の話はやめて、日本とヨーロッパ連合で新しい組織を作るべきであると。最終的に二人は合意に達し、第一回世界大会を1970年10月に東京で開催することになったのである。そしてそこでWUKOが誕生したのである。
 世界空手連盟(Word Karate Federation/WKF)は寸止め系(もしくはスポーツ空手)の競技の国際的統括団体であると主張し、1993年まで世界空手連合(World Union of KarateOrganizations/WUKO)と称されていた。現在では2年に1回の割合で世界空手道選手権大会を開いている。
 WKFの前身であるWUKO(世界空手連合)は1985年にIOCの加盟を申請し、IOCの公認団体として承認された。しかしその後、国際空手道連盟(International Traditional Karate Federation)/ITKF)から「世界のkaraてを統一する団体はWUKOだけではない」という申し立てがなされ、1991年にIOCは「WUKOとITKFが合併してできる団体をWKFとして、そのWKFに仮承認を与える」という措置をとった。その後、WUKOは合併に先駆けて1993年に名称をWKFに改称、WKF、ITKF双方の代表による話し合いの場がもたれたが、歩み寄りがほとんどないまま平行線を辿っていた。IOCは合併についての期限を設けていたが、問題未解決のまま期限が来る度に延長、再延長を重ねとうとうIOCは合併問題を空手関係者にゲタを預けるかたちで、1999年6月19日、韓国で行われたIOCの第109回総会で世界空手連盟(WKF)がIOC公認団体として正式に認める形となった。これに対して、ITFKは承認していない。
 
 WKFの加盟国は、各大陸連合に所属しており、各大陸ではそれぞれ独自に選手権大会を開催し、各地域毎の空手道の発展と交流を図っている。全日本空手道連盟(JKF)はこれまで世界空手連盟に対して主導的な立場で、運営から審判技術指導まで行ってきていたが、近年はもはやJKFから学ぶものはないと豪語するヨーロッパやアメリカの国々がそのすべてにおいて主導権を握っているのが実情である。空手着の色の選択、チーム形における分解の技術、組み手ルールの変更、上段蹴りは3ポイント、突きは1ポイント、形のフラグ方式の導入、これに伴う第二指定形の制定などすべての点においてヨーロッパ主導のルールになっている。もはや日本の空手はヨーロッパの空手になってしまった。これからは、日本人が優勝するのはますます困難となるだろう。』

また、
 『空手は沖縄から始まり、これを日本に紹介したら、沖縄の空手は日本式の空手に変えさせられた。日本本土の人は、沖縄に対して、日本式空手をおしつけた。そして、日本式空手が世界に広まって日本人は世界の指導者となったのはつかの間、今度は欧米人によって欧米式空手へと変化した。日本人の空手家は自分が教えたはずのヨーロッパの人から空手を指導される羽目になった。全く沖縄空手のことをあざ笑っていた張本人達が今全く同じ境遇の悲哀を味わっている。今後も世界の空手はどんどんルール改正し、新しい空手の形を作るであろう。こんな不条理を誰が納得できるであろうか。』

 すさまじいまでの全空連への反感。本家本元意識の沖縄空手家たちの本音ともいえる記述で締めくくられている。


<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 次回は最終章 ー  
  
   
 2016.12.10  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(15)>
   
《世界の空手は》

ー沖縄空手の世界への伝播ー

 『空手家の中で最も早い時期に海外に渡り、現地で型の演武を行ったり稽古を希望する外国人を集めてその指導にあたったのは沖縄師範学校の体育教官兼空手道師範の職を長く勤めていた屋部憲通である。屋部憲通師範がロスアンゼルス市内の学校で空手道の型を紹介したのは1920年(大正9年)である。
 1924年アルゼンチンに渡ったのは、祖堅訪範であった。祖堅は、松村首里手の師範で、松村宗棍の系列を継承し、後に松村正統少林流空手道を名乗った首里手の名門である。祖堅は、アルゼンチンに移住しそこで道場を開き首里手を教えると共に、各地で空手の演武を行ったのである。彼は1952年に沖縄に帰って来るまで28年間、アルゼンチンで空手を指導し、その門弟が現在アルゼンチンで活躍しているのである。彼の功績は大きい。彼は沖縄に帰国後西原町我謝で道場を開いた が、少数精鋭主義を守り、昔の空手の流儀を頑なに守った。
 また、宮城長順がハワイに渡ったのは、1934年(昭和9年)5月で、屋部憲通が渡米してから14年後のことである。ハワイの東洋時報社という邦字新聞社から招かれたものである。当時の記録には白人の野放図な横暴に対抗するための「護身術」だと紹介されているが、当時日本が先進諸国のアジア政策に対抗して満州に帝政を樹立したのは昭和9年のことで、その前年には国際連盟を脱退しているので、白人の日本人に対する感情が最も悪化していた時代で、ハワイでもいたるところで暴力沙汰が起こっている時期である。
 上地流の友寄隆宏が渡米して1年間の長期にわたってボストンを中心に指導したのは昭和30年代前半であり、剛柔流の東恩納盛男がアメリカに渡ったのは昭和40年代である。東恩納は、その後沖縄と米国に軸足をおき、世界各国へ空手指導に飛び回っている。

 このように、船越義珍が東京で唐手を披露した1922年より以前に、沖縄の唐手家は独自にアメリカ本土に渡り、空手を紹介していたのである。このようなことが何故できたのか。
 それは、沖縄県の移民政策のおかげであった。 沖縄の移民は戦前、戦後を通じて盛んに行われ、日本国内でも有数の移民県である。たとえば、戦前の1899年(明治32)から1941年(昭和16)までの43年間の移民統計をみると、沖縄県出移民数は7万2227人で、これは全国65万5661人の11%を占める。ちなみにトップの広島県が9万6848人で全体の14.8%を示し、沖縄県の出移民数は広島県についで2位である。また、1940年(昭和15年)の県民人口で海外に住む移民人口を割った出移民率は、10パーセントにおよび、沖縄県は抜きん出て1位になっており、これは、全国平均の6.68倍で、2位の熊本県の2倍以上になっている。現在、沖縄県移民は約36万人といわれ、日系人約260万人の14パーセント近くにもなる。

 沖縄県にとって移民政策は県政の最重要課題であった。移民は2つの問題を解決した。1つ目は、移民の増加によって県内の過剰人口を抑制することができた。もうひとつは、疲弊している県経済の救済に移民先からの送金が大きく貢献したことであった。その額の県予算に占める割合は、例えば、1929年(昭和4年)の県歳入総額の66.4パーセントに相当するほどで、これは海外に住む中国の華僑が、中国本土において外貨を投入して産業を興し、中国本国の経済活性化に大きな役割を担っていることと同じである。

 太平洋戦争直後の壊滅的な打撃を被った沖縄を物心両面から支えたのは移住先からの惜しみない温かい支援であった。ハワイを中心に各移民地に沖縄戦災救済運動が展開した。救済物資の種類は、多種多様で、衣服、寝具類、食料、ミルク、ビタミン剤、石けん、ノート、鉛筆、野球などの運動用具、印刷用原紙、ピアノ、ミシン、理科学実験用具、時点などの書籍類、医薬品、漁具、乳山羊、豚、など生活全般に及んだ。

 屋部憲通も自分の息子のお孫さんに会うために渡米したものであり、そこには沖縄の移民者達が空手の大家が沖縄からやってくるということで、あらかじめアメリカの学校での空手の講演などを企画し、それが実現したものである。また、ハワイに移民したものの中には唐手をやっているものが多くおり、ハワイ空手クラブが誕生しその中で沖縄の空手道協会宛に空手の指導者の派遣要請を行い、それに基づき宮城長順が派遣され指導をしたのである。従って琉球の唐手は、日本本土に伝播するよりも前に、アメリカに伝播したのである。移民者の中に唐手を使う者がいたからである。ハワイ、ロスアンゼルス、ニューヨーク、カナダ、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、ボリビア等々沖縄人の移民者達の中にいた空手に造形の深い人達によって伝播され、また沖縄の空手家たちの海外指導によって早い時期から海外に広く伝播していたのである。

 沖縄から海外に空手が急速に普及するもう一つの大きな要因が存在した。それは1945年の敗戦によるアメリカの沖縄統治であった。太平洋戦争で日本が敗北したので、沖縄は米軍に占領され、米政府に統治された。沖縄にアメリカ民政府がおかれ、沖縄は米国政府の統治のもと、アメリカの50番目の州も同然にアメリカが支配する司法、立法、行政が1972年まで約30年間施行されたのである。
 米国の空軍、海軍、陸軍、海兵隊とその家族が5万人から10万人毎年沖縄に駐留し、沖縄の人々と一緒に暮らしたのである。そこで沖縄の文化に興味を持つ米国人も多く、特に戦争にでかけていく(ベトナム戦争時)兵隊は沖縄空手に興味を持ち、町道場に通い、熱心に稽古をして有段者となった者も多くいる。そして、彼らが本国や外国に行き空手道場を開設し、門下生が有段者となっていった。このようにして、米国中に沖縄空手が普及発展していったのである。空手が沖縄から世界に飛翔したのはこういう様々な時代背景に起因するものがあった。

屋部憲通
ウィキ

祖堅訪範
ウィキ

友寄隆宏
沖縄空手道協会

東恩納盛男
日本古武道協会

ー日本本土から世界へー

 1910年(明治43年)八代六郎海軍大佐が艦隊を那覇に入港させ、沖縄師範学校の屋部憲通師範の下で唐手術の合宿稽古を行って以来、日本海軍将兵の間にだんだん唐手術が広がっていった。さらに大正11年に富名腰義珍が東京の講道館での演武をきっかけに、沖縄の唐手家の多くが関東や関西の各大学からの招聘を受け指導を行ったために、唐手術は、大学を中心にして日本全国に急速に拡大していった。

 大正13年10月に慶応大学に「慶應義塾唐手研究会」が誕生し、大正14年10月に東京大学に「東京大国大学唐手研究会」が設立された。旧制の大学、専門学校、高等学校などの空手部員が、「学生空手道連盟」を結成したのは、1936年(昭和11年)であり、同年(大日本学生空手道連盟)には、慶応・早稲田・拓殖・東京商科(現一橋)・日本医科・旧第一高校等が参加、昭和13年の「帝国大学空手連盟」、昭和14年5月結成の「関東学生空手道連盟」には和道流系の東京大学・中央大学・東京農大・立教大学・明治大学・慈恵医科大学・日本歯科医学専門学校・東京工業大学・日本大学・横浜専門学校等が参加した。そして、空手道の全流派を網羅した「全日本学生空手道連盟」が発足するのは、昭和25年になってからである。
 
 このように発達した日本本土における唐手も戦争とともに一時中断された。しかし、終戦後になって、以外にも米軍の方から武術の米国使節団派遣要請が舞い込んだのである。
 そして、初めて日本本土から海外に空手の演武指導に出かけたのは3名の幸運な人達であった。1953年(昭和28年)米空軍の招待で渡米した日本武道使節団(団長・小谷澄之)の中に、空手部員として、木幡功(慶応出身)、渡部俊夫(早大出身)の3名がいる。この使節団は米国15州に所在する空軍基地を3ヶ月に亘って巡回指導している。これがきっかけで柔道の石川隆邦がフィラディルフィアで道場を開設したり、日本人が海外に空手でも進出でも進出するようになった。

 日本の空手家で海外に渡った人は、1955年(昭和30年)3月カリフォルニア・ロスアンゼルスに渡った早稲田大学出身の大島(現在アメリカ松濤館長)である。それに次ぐのが同年5月ブラジルに渡った東京農大出身の高松浩二で、翌年同じブラジルに渡ったのは早稲田出身の原田満典である。その他昭和30年代に海外に渡った人は、鶴岡正巳(カナダ)、阿砂利嘉明(米国)、村田誠良(メキシコ)、望月稔(フランス)、金沢弘和(米国)、岡崎照幸(米国)、三上孝之(米国)、土屋秀男(アルゼンチン)、佐々木国男(フィリッピン)、三浦勝巳(イタリア)、鈴木辰夫(英国)、加藤泰司(フランス)、長井昭夫(ドイツ)、高橋勝太郎(イタリア)、鈴木明治(英国)等である。
 今まで挙げた人々は日本本土から世界へ空手を普及発展させたパイオニアたちである。彼らの存在なくしては今日の世界の空手道はあり得なかったのである。』

 次回は国際空手団体を見てみよう。

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 続く ー  

   
 2016.12.03  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(14)>
   
 これまで目を通して、
沖縄視点の空手の流れの概要が概ね理解できたことと思量。空手発祥の地からの、素朴な怒りと怨念。ほのかに漂う諦観。
続けて見よう。

<船越義珍と大塚博紀>
『船越義珍と大塚博紀との関係は東京大学唐手部の歴史を見るとよく理解できる。東大空手部の紹介として次のようなことが記載されている。「大正14年、当時東京帝国大学医学部の学生であった檜物と松田によって船腰義珍の指導のもと「東京帝国大学唐手研究会」という名で活動を開始した。・・・東大空手部は、全国の大学空手において慶應義塾大学の大正13年に次いで二番目に発足された部である。当時会員は50名以上を数え、さらに独自の練習法を研究し全国にさきがけ実践稽古である組手練習を取り入れるなどして、ますます活動を盛んにしていった。・・・昭和11年(1936年)には会名を「空手研究会」に改め、二代目師範に大塚博紀先生(和道流創始者)を迎え組織として足元を固めてゆく。この頃会員数は百名を越え最盛期を迎える。昭和16年には当会多年の努力が結実し「全学会鍛錬部総務部空手部」(東大空手部と略称して公認され、爾来部則等漸く整備される。翌年の17年には当部昇格して「全学会鍛錬部空手部」として公認される。この頃より学徒動員の為次第に部の運営に困難が生じてくる。昭和20年にはGHQから武道禁止令が出されるが、昭和22年部再建の議が成り、学生課との交渉の結果、拳闘部(旧空手部)として再建される。昭和24年には教養学部空手部が発足する。この頃から駒場と本郷それぞれにおいて練習が行われるという今日の体制が始まった。この教養学部空手部は現在駒場生主体の練習である駒場棟として続いている。
 さらにこの頃東大拳法会という空手部のOBによる会が設立され、東大空手部は現役・OB共に確固たる組織運営がなされるようになった。されに合宿や交歓稽古、演武会などが盛んに行われ、部活動として完全に軌道に乗り、今日まで続いている。昭和30年代には、試合制度の確立に伴い練習内容も試合に勝つことを意識した練習の比率が増えてゆき、遠征・交歓稽古の若干の減少が見られた。この頃部員数が八十名を越える時期もあった。」
 以上のとおり記載されているが、船腰義珍は東大空手部の門下生、三木ニ三郎との確執から東大の師範を辞したと思われる。つまり、三木が沖縄唐手を競技カラテにするために防具組み手を開発するのに躍起となっていることにたいし、失望して辞めたと思われる。この後を次いで師範になったのが大塚博紀なのである。そういう意味では大塚と船越は競技空手について意見が異なっていたと思われる。船越義珍は、「唐手は競技化できないところに唐手の本質がある」と考えていたので
ある。

 大塚博紀(1892~1982)初代空手道名人位十段和道流祖宗家は、大正11年(1922)琉球空手術を船腰義珍から学び始めるが、大正15年(1926)船越より独立した。わずか4年の鍛錬であった。その後昭和3年摩文仁賢和(糸東流)を訪ねたと記されている。訪ねるとはどのような意味なのだろうか。普通、摩文仁賢和から空手を習ったなら、入門したと書くだろうが、訪ねたと書いてあることは、単に摩文仁の空手を見に来た、そして挨拶ぐらい交わした程度のことだろう。これでは摩文仁の空手を習ったことにはならない。
 昭和4年(1929)本部朝基を訪ねた、と記述されている。これも、同じようにただ単に本部朝基の空手を少し見た程度ではなかったか、実戦空手の本部朝基に合って空手の競技化を模索し、同年に空手試合化の研究修行を始め、今日の競技試合の基礎を作った。実質、大塚が空手を学んだのは4年ほどで、船腰義珍からということになる。たったの4年で独立して、自分の流派を立ち上げたことは評価されるべきか、それとも疑問を呈するべきか、判断に迷うところである。通常、何でもそうだが、10年。20年、と鍛錬を積んでからしか高段者にはならない。6段、7段、8段などの高段者になると確かにその流儀をほとんど8割ほどは修得したといえるでしょう。しかし、たったの4年では一体どこまで本当の空手が習得できるのか、空手をやっている本人がよく分かると思うが、まだまだひよこの類であることは否めない。空手を始めて4年経って、私は独立して新しい流派を立ち上げます、という人がいたら、そのような人を誰も相手にしないだろうと思う。しかし、大塚はそれをやってのけたのである。やはりそこには空手の技とというよりも柔術や剣道の技が彼をのし上げたのであろう。結局、4年のキャリアしかない大塚は、空手に関してはその程度の技術・技量でしか勝負できなかったであろうし、それを補うものとして剣術や柔術が必要となり空手とそれらをミックスしなければならなかったと思われる。空手術と柔術、剣術をごちゃ混ぜにした武術は本当に空手と呼んで良いのだろうか、一抹の疑問が残るのであるがしかし、
 それはある意味で成功した。彼の和道流は日本本土の四代流派の一角をしめることとなったのである。大塚は全日本空手道連盟が創立されたとき副会長の要職についた。此の全空連の指定形における採点基準とする「残心」を採り入れたのも大塚であったと考えられる。もともと沖縄空手には「残心」などという概念はない。この概念は刀で相手を切った時に発生する人間の心理である。つまり剣術における概念である。沖縄空手には残心は必要ないのである。自分の拳が相手にどの程度効いたかはいちいちジッと確認するまでもないのである。いちいち確認するようでは空手の達人とは言えないのだ。』

 「残心」については薩摩の示現流の影響を受けていると聴いていたが、下掲ウィキにある18世紀とすると、「手」(Tiy)の時代から「残心」がなかったことは合点できる。

示現流 
ウィキ


<社団法人 日本空手協会(JKA)> 通称「協会」
 社団法人日本空手協会・JKAは、1948年(昭和23年)5月に船越義珍を最高師範として結成されて以来、今日まで一貫して空手道の指導普及に当たっているが、当初より独自の教育課程を終了した専門指導員を養成し、空手指導及び技術に対する揺るぎない基盤を確立している。昭和32年月文部省認可による空手道公益法人として認定された日本でも最も古い空手道の公益法人である。この団体は社団法人として認可され、日本の空手界をリードする唯一の団体でなるはずであった。しかし、その12年後に、全日本空手道連盟・JKFなる団体が1969年に公益法人格を取得したために主導権争いが生じた。全空連は社団法人ではなく財団法人として認可されたのである。国は同種の目的のために公益法人を1つしか認めない方針を採っている。そこで、全空連は法人格を社団法人ではなく財団法人とし、しかもその設立目的を、JKAと異なる目的にしなければ認可が下りないことから、空手のスポーツ競技団体として認可を取得したのである。従って、これまでのJKAは空手の実技団体・武道団体的な公益法人と見なされ、JKFは空手の競技・スポーツ団体として区別され認可された恰好になっている。
 その後、JKFが体協に加盟を許可され、日本オリンピック委員会の承認団体として認可され、ほとんどの国家行事がJKF主導でなされるようになり、JKAもJKFの会派団体としてメンバーに加わることになった。
 しかし、JKAは単一会派としては世界一の組織力を有しており、しかも船腰義珍師範の統一した門下の団体だけに強力な体勢を維持している。JKFは日本国内の文部省管轄の行事を任されており、世界空手連盟加盟の団体として、日本国内のリーダシップをとるものの、所詮雑多の会派流派の集まりであり、ハチャグミのような存在である。これに対し、JKAは、世界中に独自の支部道場を有し、同じ流派として同じ形を行い、伝統武道空手を追及している。このことが、同じ公益法人であってもJKFとJKAの違う点である。JKAは国内はもとより、世界各国で空手道の普及と指導に当たっているが、武道文化を、正しい姿で継承発展させることこそが責務であると考えており、その目的を達成するため、次のような事業を行っている。
 総本部道場には20余名専門指導員が常駐しており、国内はもとより、世界各地からの修行者の指導に当たるとともに、世界各地からの派遣要請などに応えており、日本空手協会は世界最大の組織であり、最高の技術指導と最強の選手を育成していると主張する。

<全日本空手道連盟(JKF)>通称「全空連」
 四代流派の確立と併せて、昭和35年に全自衛隊空手道連盟及び西日本実業団空手道連盟が発足し、昭和39年に東日本実業団空手道連盟が発足した。これらの団体を網羅した空手道連盟が1964年(昭和40年)に設立された全日本空手道連盟JKFである。この組織は、文部科学省の外郭である(財)日本体育協会に加盟し、政府の協力な財政支援と権力を盾に日本空手界統一する組織であると主張する。日本全国を都道府県支部に治め、全空連の統率のもと地区連盟で運営していくもであった。当時の構成団体は全日本学生空手道連盟、全日本実業団空手道連盟、全日本自衛隊空手道連盟(墟に実業団連盟と合体)とそれに4大流派、即ち松濤館、剛柔流、糸東流、和道流をそれぞれ代表する各1団体の合わせて7団体のよるものであった。そして松濤館を代表する上記の1団体が、昭和32年4月10日文部省が認可した社団法人社団法人日本空手協会であった。その後、JKA協会は昭和50年11月全空連を脱退、6年後の昭和56年全空連に再び復帰し、全空連組織変更後の松濤館代表として全空連各流派後援団体の一つとなる。又、これとは別に平成2年、JKAの一部が協会を割って出て、社団法人登記簿謄本事件をおこし、裁判となり東京地裁、東京高裁における協会の全面勝訴を経て平成11年6月最高裁に於て却下されたことにより協会が全面勝訴で終結している。
 昭和46年に第一回世界選手権大会を開設するまでになり、昭和49年に全国高等学校体育連盟空手部が競技団体に加盟、最近全国中学校空手道連盟が参加した。また、昭和63年には女子団体組み手、個人及び個人形が始まった。 このようにして、全日本空手道連盟を中心にして日本の空手道が確立されていったのである。空手道連盟は、独自の空手指定形を創設し、また独自の寸止め組み手ルールを制定した。これらの指定形と寸止め組み手ルールが日本の空手の確立を宣言したのである。そこにあるのは沖縄の「手」(Tiy)の概念からほど遠いものであった。そのことが、後の沖縄空手界に大きな波紋を投げかけることになる。
 全日本空手道連盟は、国から公益法人として認可され、会長に笹川良一、副会長に大塚博紀が就任した。それ以来、国の文部科学省の直轄補助期間としての(財)日本体育協会への加盟および国民体育大会への参加などにより国民体育の一環としての空手道の地位を確立し、また試合制度の整備や競技ルールの改良など、空手道の発展のための環境づくりにいそしんでいる。つまり、全空連は空手をスポーツとして捉え、空手を通したスポーツ競技の育成に力を注いているのである。国内の学校関係の空手、国体、インターハイ等の空手大会はこの全空連が作った指定形を行わなければならないというシステムである。
 全空連独自の審判員資格、指導員資格、公認段位などの資格制度を整備し、その認定・管理・運営を行っている。JKFは日本を代表する空手組織として国内の空手界を管理し、会員制度を通じて個々の空手マンを統括しているとする。当該連盟は体重別、ポイント制の競技団体である。構成員としては、実業団、学連、高体連、中体連、その他の競技団体である。JKFの組織は、地域団体である各都道府県連盟および地区協議会、競技団体である中学校、高校、大学・実業団の各連盟、そして各流派からなる会派団体から構成され、これらの団体の集合体として国内空手会を一つにまとめている、としている。
 所属する会派団体には、いろいろな流れがあり、それぞれが独自の流派として存在している。JKFはこれらの集合体である。
 全空連が作った指定形がある。それは、糸東流からセイエンチン、バッサイ大、剛柔流からセーパイ、サイファ、松濤館からカンクウ大、ジオン、和道流からチントウ、セイシャンの8つである。この形はなぜか毎年少しづつ変わるので毎年全空連が主催するセミナーを受けて、どの形のどこがどう変わったかを正確に把握して練習しないと減点となり試合に勝てない仕組みになっている。従って全空連の理事や役員のいる学校関係が強いということになる。非常に不思議な、不可解な仕組みである。
 最近第2指定形なるのもが制定された。それは次の8つである。糸東流から松村ローハイ、ニーパイポ、剛柔流からクルルンファ、セーサン、松濤館からカンクウ小、エンピ、和道流からクーシャンクー、ニーセイシーである。なぜに第2指定形が登場したのかというと世界空手連盟が試合ルールを変更したからだ。これまで、空手の試合は点数制で行っていた。予選で点数の高い順に決勝戦に進み、決勝で得点の高い者が勝ちであった。従って、予選の形、これは必ず指定形で行うのである。そして決勝で自由形を一つ、合計二つの形をやれば優勝できたのである。ところが、世界空手連盟のヨーロッパ陣営の理事から形の競技をフラグ方式で行うこととして提案されこれが通ってしまった。従って、形の試合は、対戦する2人が同時に形を行い、審判は旗で赤又は青を挙手して判定を下すことになったのである。このことから、1回戦、2回戦と進むにつれて多くの形をしないといけなくなったのである。そこで第二指定形なるものが登場したというわけである。

 全空連の会員は約6万、予算は約2億5千万円といわれている。国からの補助金が約3千万と大きい。この金の力と国から与えられた権限によって非常に権威主義、閉鎖的な面があるが、県連レベルにおいて少しづつ体質改善が図られている。それは、全空連の空手が世界を支配していた時代が終わり、変わってヨーロッパにその主導権をとられてしまったという側面が大きい。と同時に思うように学生が学校空手部に入部しなくなったことと少子化の波で今後中体連、高体連などの下部団体の組織が弱体化してくることが必至であること、さらに今は寸止め空手よりK-1等の実戦空手がブームとなってきていることなど様々な要因が考えられる。』

 この書が世に出たのは
2007年11月。その後、ブームになったK-1も不祥事がありテレビから消え、町道場は一時的に中年と子供ばかりの光景も散見されたが、オリンピックの候補に上がり、正式決定後の現在は様相が一変。宇佐美里香などの形演武に魅せられた女性ファンも増えている。
 全空連の会員も2016年現在約9万に増えている。都下の空手道場は7~800あると推定されているが、全空連の登録道場は約500余。 日本空手協会(JKA)はその後、また脱退・再加盟を繰り返し分裂も起こしている。 所詮、権力(国:文科省・体協が正式認定)と金(補助金)を握っている全空連に勝てはしないのだとの辛辣ともいえる揶揄もあるようだ。ちなみに12月11日に開かれる全空連主催「全国空手大会」に天皇・皇后陛下が初めて臨席されるが、その前は昭和36年に今上陛下が皇太子の時に協会主催の全国大会に臨席されていた。それは全空連の設立以前の話である。


<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 続く ー 

   
 2016.11.20  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(13)>
   
《日本本土の空手「型」》


 『日本空手は、松濤館流、糸東流、和道流、剛柔流が四代流派といわれている。これらの日本空手のすべて沖縄の空手家が大正11年以降本土に渡り教授したものである。大正5年、沖縄の空手家、富名腰義珍が京都武徳殿で空手の演武を行ったのを皮切りに、大正11年東京で行われた文部省主催の古武道展覧会に出席し、演武を解説した。これを契機として、沖縄の空手は日本本土で大々的に紹介されたのである。その後、船越義珍(大正末期に富名腰から船越と改性)は東京に「明正塾」という空手道場を開設し、関東を中心に、各大学での空手の指導を行い、昭和9年「松濤館」を創設した。
 糸東流は沖縄出身の空手家、摩文仁賢和が関西を中心に空手を指導し、自らが師事した首里手の糸洲安恒と那覇手の東恩納寛量の頭文字をとって「糸東流」と名乗ったのである。
 剛柔流は沖縄県警察所の職員だった那覇手の宮城長順が京都帝大、立命館大学等の関西を中心に指導を行い、昭和5年に自流を剛柔流と命名した。
 和道流は、東京で指導していた船越義珍に師事した大塚博紀が柔術と沖縄空手を融合して作ったものである。このようにして、すべての日本空手の源流は沖縄空手なのである。
 
 沖縄からもたされた空手は、日本本土で急速に普及し、全国に広がっていった。そういうなかで、空手を競技として大衆化、スポーツ化する事が検討された。その結果、「セーパイ」「サイファ」「ジオン」「カンクウ大」「セイエンチン」「バッサイダイ」「セイシャン」「チントウ」の8つの型である。これらの型は首里手と那覇手をベースにして様々に変えられたものである。従って、もともとの首里手、那覇手からかなりかけ離れた型になっているのは明らかである。
 
 沖縄の伝統空手は日本本土に渡って、「型」がほとんど変わった。伝統型は新しく移入された土地で異なる文化に触れ、時代的に変化したのである。沖縄の伝統文化である「型」がいとも簡単に変えられたのである。また、型の呼び名さえ、変わったのである。「ナイハンチ」の型は「鉄騎」に、「ピンアン」は「平安」に、「チントウ」は「岩鶴」に、「クーシャンクー」は「観空」にとすべて呼び名が変わった。沖縄で使われていた沖縄の方言であるカタカナの型の名前をすべて日本語に直し漢字化したのである。それだけではなく「型」そのものも変えられたのである。上段受けだった箇所が中段受けに、左側に転身するところを後方向きに、手刀打ち込みが平手打ち込みに等々さまざまな箇所が手直しされている。危険な攻撃や技をすべて安全なように、しかも見た目に美しい曲線を描くように改正したのである。一撃必殺・完全防禦を絶対是とする沖縄伝統空手の、伝統型はこのように本土日本人によっていとも簡単に変えられてしまったのである。「型」が変わるということは、沖縄の伝統文化が変化し、壊れていくことに他ならない。 それは寸止め組手の試合についても同様である。競技空手の組手は、「カキダミシ」という昔からある沖縄の実戦空手の思想からは、大きくかけ離れている。下段の蹴りが使えないし、少しでも早く攻撃するためにスピードだけを考慮した攻撃になり、「肉を切らして、骨を切る」という壮絶きわまりない攻撃が通用しなくなり、時には反則視されるのである。巻藁を突いて拳を造り一撃で倒すという伝統空手の鍛錬法は競技空手には通用しない。一度も巻藁を突いたことがなくても、下半身のバネだけを鍛えて、瞬時に相手の懐に飛び込み攻撃し、相手が攻撃する前に瞬時に逃げる、そのための立ち幅跳びのような飛び込みだけを毎日毎日特訓して、国体で優勝する者が現れるのである。これが本当に空手なのか。これも寸止め組手という名の空手変化のようである。

 『方丈記』の一節に、「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しく、留まることなし。」と詠われている。この世に変化しないものがあるのだろうか。変化するが故に世が変わり、世が変わるが故にその時代時代の文化も変わるのである。武道の変遷もまた同じで、空手道もまた同じように変わってきたのである。技芸文化というのは時の人々の生活様式に則し、行動様式に則し、思考様式に則して変化する運命にあるといえよう。「型」文化の原型の保存継承がいかに難しいものであるかを昨今の競技空手は雄弁に物語っている。』


<注>敬称略、・・・は「中略」
   抜粋構成一部便宜変更。 

             ー 続く -
   
 2016.11.18  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(12)>
 
 《沖縄伝統空手の「型」(2)》


(2)剛柔流・那覇手系の「型」
 『那覇手・剛柔流を古来の「手」(Tiy)から「唐手」(Tudiy)に変えたのは、那覇手中興の祖と言われている東恩納寛量である。
 那覇手にある拳法の極意は基本形の三戦(サンチン)の呼吸呑吐にあると言われている。攻防の際に於ける人体の浮沈、挙止進退、集中力、敏捷性、瞬発力、持久力等が正しい呼吸法により激しい運動にも対処できるよう修得する。また、形による技の反復連流により虚実を計り、骨格筋力の完成を目指すのが呼吸鍛錬法である。また、攻防時における特徴は一般的に防御的であり、主に接近戦を得意とし、下肢は柔らかく、上体は手技が発達、進んで突き、退いては防ぐのである。それと同時に人身時の破壊力強化のため巻ワラ、チーシー、サーシー、握力カメ等他の補助器具を補助運動(徒手)に使い全身の筋力強化等を行い、各人その人の武才により心身の鍛錬が出来るところに那覇手の特徴がある。・・・

 明治時代は唐手界も混沌としており那覇手、首里手の型の伝承や系統化、指導体制が整っていなかった。近年まで、閉鎖性的で門外不出とされ、一子相伝という厚いベールに包まれた唐手の指導体制を、寛量は時代の要請をいち早く受け入れ、新時代に向け武道を学校の体育教育で実施した。明治38年(1905年)、県立師範学校、県立第一中学校において唐手術が武道の正科として採用された。その実現の一翼を担った寛量の努力は、斯道発展に大きな貢献を成し、同時に名士済々たる那覇手(剛柔流)の後継者を育て上げた。宮城長順、許田重発、比嘉世幸等である。その後、摩文仁は関西地区へ、許田は主に九州地区への普及に努めた。・・・

 流祖宮城長順は那覇手剛柔流の系統は、1828年の頃、南派小林拳福拳の系統を継ぎ、その後研鑽を積んで「剛柔流唐手拳法となす」といわれた。その技法の特徴は大別して基本形(三戦)、開手形、閉手形からなる。新垣世章、東恩納寛量から型として現在まで継承されたの、古流形の三戦(サンチン)、砕破(サイファー)、制引戦(セイユンチン)、四向戦(シソーチン)、三十六手(サンセイルウー)、十八手(セーパイ)、久留頓破(クルルンファー)、十三手(セイサン)、壱百零八(スーバアリンペイ=ベエチュウリン)で、それと併せて宮城長順が創作した国民普及形の撃砕第1、第2及び開手と転掌など12の形をもって剛柔流の鍛錬型になっている。独特の手としての三戦形、長順が編み出した転掌の基本手法と換手法の会得は那覇手の神髄とし奥義を伝えるものといわれている。
 また開手形では、緩急を特に取り入れ、気合とパワーがそなわった剛柔流を代表する型として壱百零八の型がある。慶應3年(1867年)尚泰王の冊封使終了を祝賀するため、首里崎山の御茶屋御殿において那覇在士族新垣世章によって壱百零八が演武されたと歴史に記録されている。・・・

①撃砕(ゲキサイ)第一または初段
②撃砕(ゲキサイ)第二または弐段
 剛柔流の多くの道場で、一番初めに習う型。昭和10年に宮城長順が、当時の 沖縄県の体育教育のカリキュラムの ひとつとして考案した。 突きや受け、転身 (体さばき)、立ち方などの基本的な動作がバランスよく採り入れられ、かつ破綻 なく紡がれており、空手を 行う上での基礎体力を養うのに適している。 ちなみに撃砕第一は基本的に手を正拳に握って使うが、第二では開手を使用し、動作も、若干高度になっている。
③サンチン(三戦)
 剛柔流の背骨とも言える型。「サンチン」とは、立ち方のみならず、伸ばす筋肉と曲げる筋肉を同時に働かせる事で任意の 関節をロックし、外部からの衝撃に 対する耐久力を高める技術全般の事を指す。
④転掌(テンショウ)
 突きが繰り返し使われる三戦に対し、殆どが受けの動作で構成 される珍しい型。三戦、転掌は共に単純な動作の型である。剛柔流の基本思想は辿っていけばここに行きつくと言っても過言ではなく、高段者でも、常にここへ立ち返って確認するほどである。
⑤サイファ(撃破・最破)
 猿臂(肘)を多用する比較的短い型。
⑥サンセイルー(三十六手)
 宮城長順の同門である許田重発がこのサンセイルーの原型と 思われる型を最も得意としたと言われており「許田のサンセイルー」を記録した8ミリフィルムが最近まで残っていた。
⑦セイユ(エ)ンチン(制引戦・征遠鎮)
 かっては「制引戦」と書いてこう読ませたが、戦前、当時の世相を反映して軍事色の強い表記に改変され、現在に至っている。旧い方の名前が示すとおり、襟や手首などをつかんで引きつけ ようとする相手を想定した技が多く含まれる。柔の要素が強く、蹴り技が全く存在しないのも大きな特徴である。
⑧シソウチン(四向戦・士壮鎮)
 セイユンチンと同様の事情により「四向戦」という表記から、このような表記となった。動作の大きな受け技が目を引くが、これは恐らく長物との戦闘を想定しての事であろうと思われる。
⑨セイパイ(十八手)
 全ての型の中で最も柔の要素が強く、発祥が南部の黄河流域 ではなく、北方や西方の砂漠地帯であるとする説もあり、実際 剛柔流に限らず、空手の型としてはかなり異彩を放っている。 大抵どんな武術も、その地域の気候や風土に合わせて変化、 改良されてゆくものであるが、この十八は、大陸から伝わったものが、殆ど手を加えられずに原型を留めていると言われる。
⑩セイサン(十三手)
 セイパイを柔の型とするならば、こちらは剛の型の最右翼と言ってよい、非常に動作の激しい型であり、突きを得意とする人が好んで練習する傾向のある型である。
それに
・クルルンファー(久留頓破・来留破)
・スーパリンペイまたはペッチューリン(壱百零八手または百歩連)
 ・・・がある。

(3)上地流の「型」
 上地流空手道とは上地完文を始祖とする流派で、沖縄空手の 三大流派の中では一番歴史の新しい流派である。上地流は 祖師上地完文が中国福建省で周子和に教えを受け虎拳 (パンガーイヌーン拳法)がもとになっている。上地流系では 次の8つを流派の型としている。
①三戦(サンチン)
 中国南派少林拳の一門「パンガーイヌーン流」の直伝の型。 基本的な立ち方、するどい眼力、突き蹴りに耐える身体的抵抗力の養成、純一無雑な境地に己を没入させる精神力の錬成。型を演ずる場合には、この型に先んじて他の型を演ずることは許されない。上地流の全ての型は「三戦」の諸原理によって規定されている。 「三戦」は基本的かつ絶対的な型である。
②完子和(カンシワ)
 1954年上地完英によってつくられた。・・・この型はもともと小拳が使用されていたが、最初の三つの突きは後で正拳に改められた。 上地流の技法の中で唯一、正拳での突きが含まれる型である。 初心者用である。
③完周(第二セーサン)
 糸数盛喜によって考案された型である。完子和と同様、完文と周子和の名を組み合わせて命名された。 もともと「第二セーサン」と呼ばれていたが、1970年に 改名された。セーサンの動きを多く含んでおり、セーサンの修得の 前準備的な目的で考案されたものである。初心者を対象に したものだが、平手廻し受け、据え腰での振り肘、拇指拳突き 等が多く、初心者にとってはかなり難しい型といえる。
④十戦(セーチン)
 1963年、上原三郎によって考案された型。 級レベルの型の中で最も難しいとされる。「沖縄手」と「パンガーイヌーン」の動きを多く含んだ型である。
⑤十三(セーサン)
 中国伝来の「三戦」「十三」「三十六」の技法の一つで、中国拳法に現存する。「龍荘拳」「虎荘拳」「鶴荘拳」を龍虎鶴と称している。その中の鶴拳を基に編み出され、実践に即応しうる実践技を練磨するための型である。開手技がほとんどで、足先蹴り、 鶴の一本立ちの構えが特徴である。スピードと瞬発力(バネ)を必要とする型である。
⑥十六(セーリュウ)
 上地完英によってつくられた型。ねこ足立ちを含む点で上地流の他の型とは多少異なった 性質を持つ。平手廻し受けと拇指拳突き等開手技が多く、下半身の粘りが必要である。
⑦完戦(カンチン)
 三十六(サンセイリュウ)とよく似た動きをもつ。上地流七番目の型で、転身技から鋭く踏み込んでの「肘突き」「小拳掬い受け」「下段払い受け」等据え腰から発動される技法が特徴である。下半身の粘り(ムチミ)と捻転力が要求され、スピードとダイナミックな動きが特徴である。
⑧三十六(サンセイリュウ)
 中国伝来の型で、上地流空手道の八つの型の最後の型である。四方八方に敵を想定し、それらに対する動きは「自然立ち」「前屈立ち」 「据え腰」と変幻自在であり、緩急自在の動きを芸質をおびる。美と力と早さが混然一体となった様はまさに動く身体芸術である。
⑨龍虎(リュウコ)
 昭和24年、上地完英は大戦後はじめて、沖縄県宜野湾村に上地流空手術研究所の看板をかかげ、指導を再開し、昭和32年、上地流空手研究所を「上地流空手道場」に改めた。 このころから上地流は世界的に普及発展へと胎動しはじめた。
 ・・・』

<人物紹介>
許田重発 
人物紹介・ウィキ
比嘉世幸 
人物紹介・沖縄尚礼館
摩文仁賢和
人物紹介・ウィキ
新垣世章
人物紹介・ウィキ


<注>敬称略、・・・は「中略」
   抜粋構成一部便宜変更。      
                ー 続く -

   
 2016.11.08  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(11)>
 
 《沖縄伝統空手の「型」(1)》


 『沖縄伝統空手と言われるものは、首里手(小林流系)、那覇手(剛柔流系)、そして上地流(上地流系)の三つである。泊手ともあるが、これは首里手と那覇手の混合とも言われている。・・・現在は、50有余の流派・会派が存在するが、もともとこの三つが沖縄の伝統空手の主流である。
 小林流は首里手と言われ歴史が長く、琉球古来の「手」(Tiy)がその源流である。・・・剛柔流は那覇手の開祖と言われる東恩納寛量が中国拳法の「リュウリュウコウ」から手ほどきをうけたため中国拳法の影響を多く受けている。上地流は開祖の上地完文が中国の「周子和」から教授を受け、剛柔流と同じように中国拳法の影響を受けている。
 沖縄空手界は、大正7年に首里に「唐手研究会」を発足させているが、その時の主要メンバーは船腰義珍、大城朝怒、知花朝信等である。一方、那覇の旭が丘に「沖縄空手研究所」が設立され、この主要メンバーは喜屋武朝徳、宮城長順、本部朝基、城間垣貴等でえあった。ほとんどが首里手の武士で宮城長順のみが那覇手である。

 船腰義珍は型の習得の心得について、「空手道教範」(廣文堂書店)の中で次のように述べている。 「昔は型一つを習うのに三年くらいかかったので、相当の達人といはれる人でさへも型は三つか、精々五つしか知らないのが普通であった。澤山知っているからと言って、生半可では何にもならないので、却って間口が狭くとも奥深い方がよい訳である。著者も騎馬立初段から三段まで習ふのに十年間かかった。ただし型には各其の型の特長があるから、広く知って置くという事も甚だ大切で、あまり一つの型に執着するのも考へものである。一般に昔の人は狭くして深く、今の人は広くて浅いが、その何れに偏するのも思わしくない。宣しく中庸を得るべきである。それで著者は一通り要領を会得したら先へ進め、平安五段まで、或いは騎馬立三段まで、あるい慈恩までという風に区切りをつけて、それまで進んだら、また元に戻って反復練習せしめる事にしている。空手の型は単に知っているといふだけ
では何にもならないのだから、一度習った型は常に繰り返し繰り返し練習して、眞逆の時に役立つようにして置かなければ在らない。」と述べている。本部朝基も型は3つ4つしか知らなかったと言われている。欧米に行くと、40~50の型を知っているといって得意になっている人が多い。沖縄の師範はそのような人を信用しない。空手は数でないのだ。・・・

 三大流派はいろいろな経緯があって現在約100の流会派、約360道場に分れているがその中で首里手小林流系が約200道場で56%という圧倒的多数を占めている。もちろんこれは、学連、高体連、中体連や本土の空手支部道場、格闘技のみの空手道場、伝統と見なされない新しい流会派など沖縄の伝統空手でない道場を除いた数字である。ちなみに剛柔流系の道場数は91で約25.6%、上地流系の道場数は66で約18.5%である。

(1)首里手小林流系の型
「首里手」の特徴は、攻撃を重視し、スピードを勝負とする。呼吸法は自然体である。・・・ 首里手型の基本は「ナイハンチ」である。「ナイハンチに始まりナイハンチ」に終わる」といわれ、小林流系では型の稽古は「ナイハンチ」から必ず始め、そして、稽古を締めくくるときにもまた、「ナイハンチ」で閉めるのである。このように、ナイハンチは首里手・小林流系のもっとも大事な型である。首里手においては、このナイハンチだけを毎日鍛錬すれば、他の型を習う必要はない、と言われるほど型の中の型である。
 この「ナイハンチ」は昔からあった古流ナイハンチを、糸洲安恒がこの原型を元に「ナイハンチ2段」「ナイハンチ3段」を創作して、現在のナイハンチ三段までにしたといわれている。ナイハンチの技は、手刀の打ち込み、正拳中段突き、中段受け、顔面裏拳、足刀蹴りなどの高度な裏技が含まれている。「ナイハンチ」の他に「ピンアン」が五段まで、「パッサイ小」「パッサイ大」「クーシャンクー小」「クーシャンクー大」「チントー」「ゴジュウショウ」等がある。

①ナイハンチ初段 古来より沖縄首里地区に古くから伝承されて いる型である。 ナイハンチの型はピンアンの型と同様に初心者には欠くことの できない基本練習型である。ナイハンチは昔の達人によって つくられたものであるが、作者の詳細は不明である。 この型の特徴は実践的な攻防の技より、一定の立ち方を崩さずに足腰を鍛錬し、空手に必要な筋骨を発達させることに 主眼がおかれている。
②ナイハンチ二段 糸洲安恒が創作された型。
③ナイハンチ三段 糸洲安恒が創作された型。
④ピンアン初段  過去よりあった型。
⑤ピンアン二段  糸洲安恒が創作された型。 
⑥ピンアン三段  糸洲安恒が創作された型。
⑦ピンアン四段  糸洲安恒が創作された型。
⑧ピンアン五段  糸洲安恒が創作された型。
⑨パッサイ小   糸洲のパッサイ・松村のパッサイ
 とも呼ばれる。攻防の変化に富み、小林流の基本技の大半が 包含されている。いったん受けた手をすぐに受けかえる技が多く、小林流の名型の一つといわれる。
⑩パッサイ大   この型は伝承される先生により、多種の ものがある。現在、伝承されているものは、花城、松村、親泊のパッサイ、多和田、石嶺、知花、松茂良、喜屋武、本部のパッサイがある。
 もとは同じと考えられているパッサイがこれだけ多様化したのは、その型を伝承された先達の空手に対する造詣の深さやその先達の性格・体格によって変えられてきたのではないかと 考えられる。
  「花城のパッサイ」の花城長茂は、前半の外・内受け動作は、 左右の身体捌きと腰を切る運動でやっていた。  「松村のパッサイ」は、松村派のパッサイで、多和田先生から知花朝信に伝えられた。知花朝信が好んで演武された型である。
  「親泊のパッサイ」は沖縄泊地区の系統。親泊興寛は、親泊のパッサイの型を研究した。
⑪公相君小  糸洲安恒が「クーシャンクー」の原型をもとに創案された型であるといわれている。二段蹴りなどの豪快な技や棒(あるいは杖)を取る技、時間を想定した技(フェイントをかけて身をかわし、下から相手の動きを確かめる) などが組み込まれている。
⑫公相君大  大島筆記によると、この型は、清朝の武官であった公相君が渡来して伝えたのではないかといわれる。パッサイの型と同様に多種の型が伝承されている。糸洲、 北谷屋良、国吉等がある。
⑬チントウ  沖縄首里地区の系統。古来より名型の一つとされている。演武線は縦一線で、攻防に同時技が目立つ。躍動感あふれる技が多く、腰の上下動や鍛錬として片足立ち(不利な状況を想定している)が特徴である。「チンテイ」は沖縄首里地区の系統。
 「チンスウ」はこの型を糸洲安恒が摩文仁賢和に伝授した後に一部不明の点があったらしく完全には伝承されずに現在は欠伝の止む無きに至っている。
⑭五十四歩  沖縄首里地区に伝承された古い型で、首里手糸洲派を代表する最高の型である。ソーチンと同様に摩文仁賢和はこの型を好んで演武された。
  「古流五十四歩」は遠山寛賢が好んで演武された型である。緩急自在のリズムが特徴的で、演武線は左右前後が基本だが、斜め方向にも多く出る。小林流の型にしては珍しく、拳での突きや前蹴りが少なく、抜き手や手刀受けが多用され、鷲手や支え立ち、つかんでの引き落としなどの技が見られる。
       
⑮アーナンクー 沖縄泊地区の系統。
⑯ワンシュウ  松茂良派の型の主技を糸洲安恒が改作したものといわれている。⑰ワンダウ  ワンダウは欠伝。新垣派の型。
⑱ニーセーシー 新垣派の型。
⑲ジオン    沖縄泊地区の系統。
⑳ジイン    沖縄泊地区の系統。
21ジッテ    沖縄泊地区の系統。

 首里手・小林流の型の特徴は、正拳突きと前蹴りを基本とし、突き、蹴りにより相手を一撃で倒すことを主眼としており、よって、掴みや投げ等はほとんど型の中にもない。相手を掴むということは、逆に相手捕まえられることを想定しなければならず、掴めば空手より柔道などの方がよっぽど有利である。従って、琉球古来の「手」は掴む事はほとんどの場合想定していないのである。首里手に掴み手が少し入ってきたのは、佐久間寛賀が中国拳法を手の中に取り入れたためである。従って、掴みは、古来の琉球の「手」ではなかったのである。このように、首里手は掴みと投げ等をほとんど想定しない離れた位置からの一撃必殺という攻撃型の「手」(Tiy)であったのである。
この点は、次に述べる剛柔流や上地流とは全く違う技である。首里手・小林流系の特徴のもう一つは、呼吸である。呼吸法は自然体である。これは、剛柔流や上地流が「サンチン」を基本として行う独特の呼吸法とは全く異なっている。』
 
<注>敬称略、・・・は「中略」
   抜粋構成一部便宜変更。      
                ー 続く -

   
 2016.10.18  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(10)>
   
《現代の沖縄三大流派(2)》

小林流に次いで

ー剛柔流(系)ー
 琉球古来の「手」Tiyを習っていた東恩納寛量が中国拳法の技、特に「サンチン」を導入して以来、これまでの琉球空手の「手」とは区別するために「唐手」という名称を付けた。那覇手の東恩納とも呼ばれるようになり、この那覇手を宮城長順が剛柔流と命名した。歴史的には約150年の歴史を有する。
 剛柔流は、東恩納寛量~宮城長順の系譜を有する。

現在この系統を継承している会派は
(1)沖縄剛柔流空手協会 
(2)沖縄空手道剛柔会 
(3)国際沖縄剛柔流空手道連盟 
(4)沖縄剛柔流空手道正道館 
(5)国際明武館剛柔流空手道連盟 
(6)琉球国技会空手道剛柔流 
(7)沖縄剛柔流泊手空手道協会 
(8)剛柔流国際空手古武道連盟 
(9)琉球空手道剛柔流興武會 
(10)沖縄空手道剛柔流 
(11)剛柔流拳志会 
(12)沖縄空手道拳法会 
(13)沖縄空手道剛柔流誠武会 
(14)沖縄剛柔流沖縄館 
(15)沖縄空手道剛柔会明武館総本部 

ー上地流(系)-
上地完文
人物紹介・ウィキ

 上地流は剛柔流と同様、上地完文が中国拳法のサンチンを中心に琉球古来の「手」を融合させ硬軟流と称し、足先蹴りを特徴として沖縄空手として普及させた。110年ほどの歴史を有している。上地完文(1877~1948年)を始祖とする流派。完文は体練型の「三戦」(サンチン)、「十三」(セーサン)、「三十六」(サンセーリュー)の3つの型と「小手鍛え」技法を伝授された。その後、完文の長息・完英が「完子和」「十六」「完戦」を創案した。さらにその後、「十戦」の形を上原三郎が、「完周」を糸数盛喜が創案した。
 昭和15年、バンガイヌーン流をいう呼称を「上地流」と改め、道場名も「上地流空手術研究所」とした。昭和24年、完英は大戦後はじめて、宜野湾村に上地流空手術研究所の看板をかかげ、指導を再開した。昭和32年、上地流空手術研究所を「上地流空手道場」に改めた。このころから上地流は世界的に普及発展へと胎動しはじめた。

 上地流は現在次のような会派に。
(1)上地流空手道協会(上地流宗家)
(2)沖縄空手道協会昭平流(沖空会)
(3)上地流空手道連盟
(4)上地流空手道振興会
(5)上地流拳誠会
(6)沖縄上地流唐手道保存会
(7)沖縄空手道上地流山会
(8)上地流唐手道拳優会
(9)国際上地流空手道琉球古武道興犠会館
(10)上地流ラムセスクラブ
(11)沖縄孝武流空手道古武道孝武会
(12)硬軟流空手道守礼会
(13)沖縄硬軟流空手道協会
(14)沖縄硬軟流空手道古武道周和会
(15)半硬軟流空手道協会
(16)沖縄上地流空手道琉球古武道琉志会
(17)上地流仲真修武館
(18)上地流尚武会
(19)硬軟流

 以上が現在沖縄県内にある伝統空手といわれる小林流(系)、剛柔流(系)、上地流(系)の三大流派である。それ以外のものは数多く存在するが、分類とすると「その他」の空手である。いつの間にか勝手に名前が付けられたり、中国拳法のたぐいであったり、相当程度の期間、沖縄の空手家の間に知れ渡ってきた流派の名前ではなく、古い空手家の名前を出して、急にこの人の継承者だと、名乗って周囲を唖然とさせたりする者が居るがこれらは、たとえ国体や世界大会で優勝して、全国的に有名になる人がいたとしても沖縄の伝統空手とは誰も認めていないし、認められるはずもないのである。


会長名は略。人物紹介はウィキペディアによる。
抜粋構成一部便宜変更。<注>敬称略、
        
                ー 続く -
   
 2016.10.15  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(9)>
   
《現代の沖縄三大流派》


 『1930年代まで沖縄空手は三大流派として「首里手」「那覇手」「泊手」の3つであった。しかし、「首里手」の知花朝信が「小林流」、「那覇手」の宮城長順が「剛柔流」を名乗るようになった。また、これまで「サンチン」の型を中心にしていた上地完文の門下が本土から沖縄に戻って「上地流」を広め第三勢力にのし上がった。このようにして現在の沖縄空手の三大流派、小林流、剛柔流、上地流が形成されたのである。この三大流派を沖縄伝統空手として沖縄の空手家は認めているのである。沖縄空手と沖縄伝統空手とは異なる。沖縄空手なるものの中には新しい流派で歴史のない空手も含まれる。しかし伝統空手という場合はその流派が何時誕生し、誰から誰に途切れることなく昔から継承されてきたという歴史がなければならない。沖縄伝統空手として次の流派が認められる。これら以外の流派がたくさん存在するがここに掲示された流派、小林流(系)、剛柔流(系)、上地流(系)が現在の沖縄伝統空手である。この伝統空手か否かは非常に重要である。
 沖縄県は文化財として沖縄伝統空手について無形文化財に指定している。これまで沖縄古武術の貴重な文化遺産として、沖縄県無形文化財に指定されたのは、八木明徳(剛柔流系、沖縄剛柔流、1912~2003)、糸数盛喜(上地流系、沖縄硬軟流1915~)、宮平勝哉(小林流系、沖縄小林流空手道)、仲里周五郎(小林流系、沖縄空手道小林館)、友寄隆宏(上地流系、沖空会)、湧川幸盛(剛柔流系1926~)、伊波康進(剛柔流系、1925~)、仲里常延(小林流系、小林寺流、1922~)、長嶺将真(小林流系、松林流、1907~1997)の9人である。沖縄県無形文化財保持者として伝統空手の部門から選定されているのは、いずれも、沖縄伝統空手小林流(系)、剛柔流(系)、上地流(系)の三大流派に属する伝統を持った道場の指導者であり、今後ともそうでなければならない。そして、このことはこれまで守られてきている。なぜなら、沖縄空手の長老達が、まだ元気に後輩の指導を行っており、これらの長老達が元気なうちは、誰が沖縄伝統空手で、誰がそうでないか、ということについて彼らが明確に判断できるからである。これらの先生方に聞けばよく分かる。流派の誰々が元々の沖縄空手を誰から伝承し今に至っているかという詳細についてである。
 これらの先生に聞けば、最近有名になっている某流は、最近まで全く無名の流派であったが、昔の師の名前を語って、まるでこの師から延々と伝承されてきたかのように言っているが、師の名前はそれなりに分かるが、この師が幅広く沖縄で空手道の伝承のために活躍していたことはなく、誰も聞いたことのないうちに、その門弟というのが日本本土の全空連の空手を学び、全空連空手で有名になり、某流を名乗るようになって初めて長老達は知ったようなもので、これでは沖縄伝統空手とはいえない、と断言する。
 従って、流派会派の分類としても、沖縄伝統空手として長老空手家が認める、小林流(系)、剛柔流(系)、上地流(系)から外し、「その他」として分類されているのである。このその他に分類された流派は、沖縄の空手家から沖縄伝統空手とは認めないという明確な意思表示である、と長老達は語った。このことは非常に重要である。従って、沖縄三大流派である、小林流系、剛柔流系、上地流系に属しない「その他」に分類された流派から沖縄伝統空手の沖縄県無形文化財保持者を指定してはならないのである。いくら全空連で有名になろうとも、沖縄県の文化財保持者として認定するには、その沖縄三大流派として認められた流派のみであり、「その他」の流派から選任してはならないのである。このようにこの伝統空手というためには自他共に沖縄の伝統空手家から歴史的に認められなければその資格はない。そして、その最低限の資格がいわゆるこれまで沖縄の伝統空手として空手界に認知された長老達からも異論のない沖縄三大流派に属する流派であることが必要条件である。』

ー小林流(系)ー
 沖縄の最も古い歴史を有する流派であり、琉球古来の武術といわれている。この流派は首里手と呼ばれていた流派に帰結する。約一千年の歴史があるといわれており、現在では、小林流、少林流、小林寺流、松林流、松村少林流、一心流、沖縄拳法などに分れている。首里手・小林流(系)は、沖縄空手の源流・本流として、沖縄県内では最大の流派会派を形成しており、現在でも県内空手人口の約6割を占めている。

(1)小林流
糸洲安恒 
人物紹介・ウィキ
知花朝信 
人物紹介・ウィキ

小林流は、佐久川寛賀~松村宗棍~糸洲安恒~知花朝信の
系譜を有する流派。現在この系統を継承している会派は
・沖縄小林流空手道協会
・沖縄空手道小林流小林館協会
・沖縄空手道小林流究道館連合会
・沖縄空手道小林流竜球館空手古武道連盟
・沖縄空手古武道小林流礼邦館道協会
・沖縄空手道小林流泉館
・沖縄空手道小林流武徳館
・小林流神人武館
・沖縄空手道小林流講道館世界連盟

(2)少林流
喜屋武朝徳  人物紹介・ウィキ

佐久川寛賀~松村宗棍~糸洲安恒~喜屋武朝徳の系譜を為す。現在この系統を継承している会派は
・全沖縄少林流空手道協会
・国際沖縄少林流聖武館空手道協会
・全沖縄少林流空手道古武道連盟
・首里少林流
・琉球少林流空手古武道協会
・琉球少林流空手道協会

(3)少林寺流

佐久川寛賀~松村宗棍~糸洲安恒~喜屋武朝徳の系譜を有す。現在この系統を継承している会派は
・少林寺流

(4)松林流
長嶺将真 
人物紹介・ウィキ

佐久川寛賀~松村宗棍~糸洲安恒~喜屋武朝徳~長嶺将真系譜を有す。現在この系統を継承している会派は
・世界松林流空手道連盟
・沖縄松源流空手道協会
・沖縄空手道松林流喜舎場塾

(5)松村少林流
祖堅方範  人物紹介・ウィキ

佐久川寛賀~松村宗棍~松村ナベ~祖堅方範の系譜を有する。現在この系統を継承している会派は
・少林流武道館
・全沖少林流空手古武道
・沖縄船越少林流空手古武道協会

(6)一心流

佐久川寛賀~松村宗棍~糸洲安恒~喜屋武朝徳~島袋龍夫の系譜を有する現在この系統を継承している会派は
・一心流国際空手道連盟
・沖縄一心流空手古武道協会
・一心流空手道
・一心流空手道古武道協会

(7)沖縄拳法
花城長茂
人物紹介・ウィキ

佐久川寛賀~松村宗棍~糸洲安恒~花城長茂の系譜を有している。現在この系統を継承している会派は
・沖縄拳法空手道協会
・沖縄拳法
・沖縄拳法陽明館
・沖縄拳法琉誠館

(8)空手研修会
佐久川寛賀~松村宗棍~糸洲安恒~花城長茂の系譜を有している。現在この系統を継承している会派は
・日本空手研修会

 会長名は略。人物紹介はウィキペディアによる。抜粋構成
一部変更。

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

         ー 続く -
   
 2016.9.9  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(8)>
   
<宮城長順>

人物紹介・ウィキ

 空手が沖縄において早くから学校体育として取り入れられた背景、そしてなぜ剛柔流が沖縄三大流派でありながら本土の四代流派として座しているのかがよく分かる。

 『東恩納寛量の那覇手(唐手)を継承したのは宮城長順(1888~1953/享年/65歳)であった。宮城長順は、1888年(明治21年)4月、那覇市に生まれた。宮城家は当時那覇に於いて資産家として知られ、他の羨むような極めて裕福な家庭に育った。幼少の頃より頑強な体に恵まれ、各種スポーツを愛好し、腕白な少年として知られていた。彼が14歳になったとき、当時那覇に於いて実力随一とうたわれた有名な東恩納寛量先生門に入ることになった。そこで彼は那覇手(唐手)を仕込まれることになる。それまでの沖縄の一般社会に於いては空手がよく理解されず。単に闘争の具として解され、空手を修行したら性格が粗暴になり周囲から嫌われると誤解されていた。
 従って修行者も極めて少なく、他人は勿論、家族と雖も誰にも知られないように隠れて修行するのか常であった。また、入門するにも相当信頼する人の紹介がなければ入門をすることが許されない、そういう時代であった。
 しかし、丁度彼が空手を始めるその頃に、空手はこれまでの秘密主義が廃止されて公開主義に大転換されることとなった。そして1902年(明治34年)には、首里尋常小学校に体操科の一部として唐手が授業の一部に採り入れられたのである。それまでは、空手は、師弟関係で1対1の稽古でしか教えてもらえなかったものが、学校の授業だと、団体一同に対する指導と変わっていったのである。そして、明治38年4月沖縄県立第一中学校並びに那覇市立商業学校及び沖縄県立師範学校唐手部が設置され、相前後して県立農林学校、県立工業高校、県立水産学校等にも亦設置されるようになって、空手は、学校体育としての市民権を獲得していった。
 東恩納先生の指導方法は極めて厳しく、3~4年間も基本の「三戦」を徹底的に叩き込み、殆どの門弟達が辛抱できず中途で逃げ出し、よほど忍耐力が強く意志強固な者でなければ長く続かなかった。宮城長順は忍耐力が強いばかりでなく、極めて研究心が旺盛で、寝食を忘れて日夜修行に励んだ。その甲斐あって、力量技量ともに抜群で、その将来が嘱望され、東恩納寛量の愛弟子へと成長して行ったのである。実力が認められるに従って、なお一層自重し、常に謙虚な態度で人に接し、信望を集め尊敬される武士となった。
 宮城長順は、1915年(大正4年)27歳の時、師の許可を得て友人の福州人、呉賢貴(白鶴拳大家)と同行し、待望の福州に渡った。1917年(大正6年)東恩納先生亡き後、益々空手の研究に没頭し、また宮城の人格と実力に憧れ、子弟の指導を懇願する者が多く、止むなくその指導を引き受けるために道場を開設した。
 そのころの沖縄において、空手界を取り巻く状況は重要な転換期にさしかかっていた。1922年に首里手の船越義珍が東京で唐手の演武を行い、日本本土に紹介されるや、日本の多くの大学から沖縄の師範達に唐手指導の招聘が沢山舞い込んできたのである。
 宮城長順は1929年(昭和4年)4月より、沖縄県警察練習所と那覇市立商業高校に空手が正課として採用され、その師範に迎えられていたために、彼のもとにも招聘要請が多くきた。裁判所や各官公庁の職員等に指導するようになり、また、本土に於いても京都大学、関西大学をはじめ立命館や同志社大学等にも空手部が創設され毎年招聘され、その指導にあたった。
 1930年(昭和5年)11月、沖縄県体育協会に初めて空手部が創設され、その空手部長に推され一般へも広く普及されるようになった。丁度この年、昭和5年(1930年)、宮城長順は東恩納寛量先生から受け継いだ那覇手(唐手)を拳法八旬の一つに「法は剛柔を呑吐す」とあるのは引いて「剛柔流」と名のり、剛柔流の宗祖となったのである。
 
 宮城長順が沖縄県体育協会の空手部長になったこと及び大日本武徳会沖縄県支部常議員になったことが、その後の那覇手剛柔流の将来を大きく飛躍させるきっかけとなった。剛柔流は全日本体育協会という日本政府つまり中央との太いパイプを形成することになり、日本本土の四代流派の一つとして中央に進出する原動力となったのである。これは、沖縄で三大流派のひとつである首里手・小林流系や唐手・上地流系が日本本土の全日本空手道の最大流派の中に入れなかったこととは大きく異なる。沖縄三大流派の剛柔流だけは、宮城長順の中央とのパイプのおかげで日本本土の最大流派の一角を占めることが出来たのである。

 宮城長順は昭和9年(1934年)、ハワイに招かれ空手の普及に努め、1937年(昭和12年)5月5日、大日本武徳会主催の武徳祭に於いて空手を演武し、全国で初めて空手術の教士の称号を授与され、1938年(昭和13年)4月、沖縄県師範学校の空手師範に任命された。また、昭和12年(1937年)日本武徳会より「教士号」を受ける。東恩納寛量 宮城長順の空手は那覇手・剛柔流として継承されることになり、、また、日本本土の大日本武徳会や全日本体育協会とのつながりが濃いために後に全日本空手道連盟の組織や指定形の制定に大きな主導権をとることになる。

 1945年(昭和20年)終戦後、沖縄民政府が設けられ、警察学校の教官に任命され、指導に専念する傍ら、那覇市壺屋の自宅道場に於いて門弟の指導育成にあたられたが、1953年(昭和28年)10月8日、各界からおしまれつつ65歳の生涯を終え他界された。』

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 続く ー 
   
 2016.9.4  <KARATE 2020 アンバサダー>
   
  新宿大会で「形」優勝常連でお馴染みの岩田樹里さんが 今年初めに空手大使に。

  KARATE 2020 アンバサダーに、「宇佐美里香」「高野万優」 「岩田樹里」さんが就任
 人物紹介・全空連

 
  2016.8.16  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(7)>
   
 那覇手を記述した限り、流れとしてこの項で首里手・泊手にも言及せざるを得ない。後先になったり重複することにご留意ご理解願います。

  ー首里手ー
 
『首里手は、グスク時代前期に戦いの武術として正拳による殺傷の技を発明して以来約600年間、さらに琉球王朝を形成し、太平の世になって約400年間、琉球古来の「手」(Tiy)として伝承され、その後に琉球を統一した首里城を中心とした首里士族の間でいっそう発達したことから「首里手」と呼ばれるようになったのである。まさしく一千年に亘る琉球伝統の技「手」(Tiy)を継承したのが「首里手」である。
 首里手の技の最大の特長は、正拳による一撃必殺である。正拳は「手」(Tiy)の真髄である。正拳は巻き藁によってしか鍛えられない。巻き藁を突かないで本物の正拳は造れない。本物の正拳とは、煉瓦やブロックを割れる正拳のことである。この本物の正拳で相手の顔面を一撃すればひとたまりもない。この正拳を武器として昔の武士達は素手で戦ったのである。沖縄の町道場には必ず巻き藁が置いてある。巻き藁は「手」(Tiy)の命である正拳を造る道具である。この巻き藁が無い道場は本物の沖縄の空手道場ではないといっても過言ではない。・・・首里手は第一義的に瞬間的に力を集中し、武力を出すことである。そのための技法は、技の速さである。速さと重みを乗じたものが破壊力とするならば鍛錬による速さと重さを補うまで修練を積み重ねなければならない。
 首里手の呼吸法は自然体である。吸うときは虚であり、吐き出しつくす寸前が実である呼吸法と力の取り方とは関連性があり、攻撃の瞬間に実を当てる。力の取り方は、内から外へ出るので、内臓を圧迫する事が少ない。また、呼吸の乱れが少なく、無駄な筋力の疲労も少なく、力の集中が容易であり、敏捷性と関連し攻撃力を充分発揮できる。それが自然体である。・・・
 首里手は主として攻撃を重視し、素早い攻撃が首里手の生命線と言われている。「攻撃の首里手、受けの那覇手」と昔から言われている。

 昔の武士は、二ないし三つの型のみを深く研究し、独自の技を修得するよう努めた。また、自分の門下生が他の師範に師事することは寛大であった。それ故に首里系の師弟関係は入り乱れており、その系譜は作りにくいと言われている。

 首里手の大家で、首里王朝の護衛官であった佐久川寛賀は、中国に渡り中国拳法の技の一部を学び沖縄に帰ってからその技を中国・「唐」(Tu)の「手」(Tiy)と紹介したためこれが「唐手」(Tudiy)と呼ばれるようになり、「唐手」(Tudiy)を紹介した人物として「唐手佐久川」と呼ばれるようになったのである。この時期から初めて「唐手」(Tudiy)という言葉が使われるようになったのであり、佐久川寛賀以前は琉球には古来の「手」(Tiy)という言葉しか無かったのである。佐久川寛賀の弟子には松比嘉、山気油屋、真壁朝顕(マカピチャングワー)等がおり、彼らは松村宗棍の先輩格にあたる。
 1809年ごろ松村宗棍が首里山川に生まれる。彼は琉球国王の武術指南役をつとめた。松村が高弟桑江良正に書き残した遺稿は有名である。松村は剣術の示現流についても興味を持っていたようである。首里国王の武術指南役という非常に重要な役職にあったことからどこの国のどうような武術に対しても当然ながら周知しておくことは必要なことであっただろうことは理解できる。彼の高弟には桑江良正のほか、喜友名、多和田真重、糸洲安恒、安里安恒、知花朝章らがいた。
 糸洲安恒(首里王府の書記官をつとめた)は、封建時代の秘伝空手を近代空手へ開放し発展への口火を切り、学校体育の中に空手が取り入れられるよう努力し、沖縄県立第一中学校、同師範学校の唐手教師の嘱託となって、空手を公開した首里手の達人である。彼が明治41年に沖縄県学務課へ空手十ヶ条を提出しているのは有名である。彼の弟子には、矢部憲通、花城長茂、富名腰義珍、屋比久猛伝、当山寛賢、知花朝信、城間真繁、徳田安文、摩文仁賢和がいた。また、安里安恒の高弟には、富名腰義珍がいる。
 富名腰義珍は、関東方面に空手を普及させたことで有名であり、彼は又、松濤館流を創始した。その主流の一つが日本空手協会である。また、彼は安里安恒にも師事した。
 摩文仁賢和は大阪市で道場を開き、関西方面で空手の普及にあたった(糸東流)。 屋部憲通は、師範学校で空手を指導する(摩文仁賢和、徳田安文が助手をつとめた)。
 花城長茂は、県立第一中学校にて空手を指導する。知花朝信は、昭和8年に国民的古来武道として位置づけする為小林流を命名し空手の普及に当たった。彼の弟子には、新垣安吉、名嘉真朝増、宮平勝哉、比嘉佑直、石川精徳、仲里周五郎、島袋勝之等がいる。
 喜屋武朝徳(チャンミーグワー)は、松村宗棍、松茂良興作、親泊興寛等に師事し、38歳のころ読谷村にある尚家直営の牧原に移住した。その時、牧原の馬場の管理人北谷屋良から公相君の形を伝承した。彼の弟子には、島袋善良、新垣安吉、野原薫、仲里常廷、長嶺将真、島袋龍夫等がいる。
 島袋善良は、昭和27年道場を開設し、後に少林流聖武館と命名する。仲里常廷は少林寺流と命名する。島袋龍夫は、一心流と命名する。
 長嶺将信は、1942年に那覇に空手道場を開設し、後に松林流と命名した。長嶺将信は伊並興達、島袋太郎、新垣安吉、本部朝基にも師事した。
 祖堅方範は、松村宗棍の孫のナビータンメーに師事し、後に松村少林流と命名する。彼の弟子には新垣盛起、喜瀬富盛、井上秀雄等がいる。
 中村茂は糸洲安恒、花城長茂に師事し、後に沖縄拳法と命名し、沖縄本島北部を中心に普及した。彼の弟子には、中村丈人、喜納敏光、安里寛、花城賢弘らがいる。
 松茂長興作(1829~1898年)は泊村で活躍し、武士松茂良と称された。その弟子には伊波興達(1873~1928)等がいた。伊波興達の弟子には中宗根正侑等がおり、中宗根正侑の弟子には渡嘉敷唯賢(福地清幸にも師事した)がおり剛泊会を発足し普及に当たっている。・・・
 
 この首里手は現在の小林流系に継承されている。小林流系とは、小林流、少林流、少林寺流(日本本土の小林寺ではない)、松林流、一心流、沖縄拳法等を含む。
 
  
  ー泊手ー

 明治12年(1879年)4月に廃藩置県となり、同年6月、那覇は西、東、泉崎、若狭、久茂地、久米、泊の七ケ村になった。このことによって、港町として栄えていた泊村は首里と那覇に挟まれてその折衷のような存在から独自の気質を主張するようになる。
 泊に住んでいる者の中から「手」(Tiy)の名手が次々と登場し、泊手なるものを独自に主張するようになった。古い空手家は「首里手」と「那覇手」しかないとするが、時代がすすむにつれて「泊手」なる用語が生まれてきた。首里手と那覇手の折衷と考えられる。従って、首里手の特徴と那覇手の特徴を有する。むかし首里手にも「サンチン」があった、という人があるが、これは純粋の首里手の人ではなく、那覇手と首里手の折衷を学んだ泊手の空手家が行っていたであろうことは想像できる。また、首里手の人が向学のために那覇手の「サンチン」を独自に学んだかも知れない。しかし、いずれにしても純粋な古来の首里手には「サンチン」はない。
 泊手は、照屋規箴(1804~1861年)と宗久嘉隆(1829~1898年)に始まる。この両師に師事し、後に照屋師の後を継いだのが、松茂良興(1829~1898)である。松茂良は、泊手を、首里手、那覇手と並び称されるまでに武術を高めた人で、後世、泊手中興の祖と言われた。松茂良は一生を空手道に捧げ泊手を確立し、後進の指導に力を尽くし、幾多の逸材が輩出した。そして後世、泊の武士松茂良と称されたが1898年11月70歳でその生涯を閉じた。松茂良は山田義恵(1865~1905年)、親泊興寛(1827~1905年)と共に「泊の三傑」と称された。松茂良は突きの名人、親泊は足技の達人で、山田は体を固くするという特技の持ち主だった。
 松茂良の武術は、ハーリーヤーの山田義輝(1868~1946年)、安富祖の久場保(久場小サールー、1870~1942年)、泊中道の伊波興達(シースータンメンー、1873~1928年)等に継承された。伊波興達の武術は、さらに仲宗根カーカーこと中宗根正侑に継承された。仲宗根は自身の空手道の研鑽に努め、60歳を過ぎるまで弟子を取ろうとしなかったため、泊手の歴史に空白の期間が生じた。その仲宗根が初めて本格的に空手の後継者を育成するために、一番弟子として入門が許可されたのが、渡嘉敷唯賢(沖縄剛柔泊手空手道協会会長)である。渡嘉敷厳しく鍛えられ泊手の神髄を余すところなく修得した。仲宗根は昭和51年、老齢のた「松茂良派正心館」道場の看板を渡嘉敷唯賢に譲っている。
 その他に泊手として長嶺将真が、両流の中興の祖である首里手、松村宗棍と泊手松茂良興作の空手を研鑽した結果、両師の名を後世顕彰する意味を含め、松林流を称えている。』

<参考(3)空手系譜・泊手>



<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 続く ー 
   
 2016.7.23  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(6)>
   
<東恩納寛量>
人物紹介・ウィキ

 『東恩納寛量がこれまでの沖縄の「手」(Tiy)の技法とは大きく異なる「サンチン」なるものを中国から移入してきて、是を那覇手として取り入れたために、従来の「手」(Tiy)の一つであった那覇手は大きく変容することとなった。サンチンなるものは、古来の琉球の「手」(Tiy)には存在しない。沖縄古来の「手」(Tiy)である首里手と新たなる中国拳法「唐手」(Tudiy)を多用した那覇手を明確に区別する必要が生じたのである。それから、首里手と那覇手は技法の面でも、呼吸法においても非常に異なるものとなっていったのである。
 その当時首里手の大御所であったのが松村宗棍であった。そのために松村が首里手の始祖という位置づけになったまでの話であり、首里手を彼が創ったということではないということを十分理解する必要がある。・・・
 那覇手が中国拳法「唐手」(Tudiy)の「サンチン」の技法を那覇手の基本として位置づけた時点から那覇手の「手」(Tiy)は大きく変容した。これに対し、首里手は中国拳法の技法にあまり影響されずに沖縄古来の「手」(Tiy)をほとんどそのまま継承し、小林流系へと継承していったのである。従って沖縄古来の「手」(Tiy)は首里手に継承され、小林流系へと継承されたこと及び中国拳法が那覇手に導入されて「唐手」(Tudiy)と呼ばれるようになり、剛柔流へと継承されていった・・・
 久米村出身の湖城という士族が東恩納と同時期に中国に渡り、拳法を学んで帰ってきた。然し二人のサンチンに対する教え方が異なっていた、ということである。湖城はサンチンの基本姿勢をこう教えていた。「提灯をゆっくり畳むようなつもりで、下腹部に力をいれる。」この姿勢は、内八字に足を開き、両肘を体側につけて、拳を直角に突きだす。いわゆる閉手型として空手の基礎となるものだけに、大変重視された。この姿勢を見ただけで、その技量が推察できるとさえ言われたものだ。この湖城の教えに対し、東恩納寛量は全然ちがった指導をしていた。
 「左右の両骨盤で脊髄を押し挟むようにして、腰部付近の肉を締め、ついで一旦ヘソの下に貯めた力をまたヘソの上に引き上げて腹を締める、というのである。こうすることで、腹と諸器官が外面の皮膚とは全く遊離してコリコリ固まってくる、というのである。福州では同門なのに何故こうもちがうのか。そこで、唐手裁判なるものが両者を呼んで、診察し、判決を下すこととなったという逸話が残っている。』

ー那覇手ー

 『東恩納寛量は那覇手の開祖と称されている。それはなぜなのか。東恩納寛量は沖縄古来の「手」(Tiy)をマヤー・新垣こと新垣世璋から指導をうけたが、中国へ渡り、琉球の「手」(Tiy)と全く異なる中国拳法の「サンチン」と「呼吸法」を沖縄に持ち帰りそれを那覇で基本型として広めたためである。・・・
 19世紀に至って琉球人の「手」(Tiy)の達人達が相次いで中国を訪れ中国拳法の技を「手」(Tiy)の一部に採り入れ始める。この頃から「唐手」(Tudiy)という  言葉が「手」(Tiy)と区別して使われはじめ、大衆にも次第に浸透し認知されるようになっていた。そして、遂に沖縄古来の伝統武術「手」(Tiy)に大きな変革をもたらしたのが、まぎれもない那覇手の東恩納寛量なのであった。
 それは、東恩納寛量の「サンチン」の技法と呼吸法であり、また開手による受け・掴みの技である。このような技法や呼吸法は沖縄古来の「手」(Tiy)の技には看られない新しい技であった。これらの技は、東恩納「サンチン」が中国拳法から得た新しい技であり、従来の「手」(Tiy)と区別する必要に迫られたのである。そこで是を中国「唐」から来た「手」ということで「唐手」(Tudiy)と呼ぶようになり、「手」(Tiy)と「唐手」(Tudiy)が区別されて使われるようになったのである。』

 沖縄古来の「手」は、構えは自然体。歩幅を肩幅に広げ、前足は相手に向け、後ろ足は前方45度に向けて、膝を少し曲げて重心を低くしていつでも前足でも、後ろ足でも蹴りにいける体勢で構える。
 かたや、東恩納寛量の構えはサンチンの構えである。この構えはこれまでの沖縄の「手」にはない発想であり、まさしく「唐手」である。もちろん古来の「手」(Tiy)の型の基本である首里手の「ナイハンチ」の騎馬立ちと「サンチン」の金的を守りながら下肢の筋肉を絞り、当て身に強くするという意味では同一の目的を持っていると考えられるが。
 「ナイハンチ」の型は騎馬立ち状態で横に進む動作。「サンチン」は前にすすむ動作。これは非常に大きなちがいである。
 もう一つ根本的に違う点は、呼吸法。沖縄古来の「手」は自然体。呼吸を相手に読まれないことを重視し、力を集約して発するときは「呼」で力を緩めるときは「吸」。攻撃を行うときの力の集約に伴う呼吸のタメ方と打つ瞬間の呼吸の吐くと同時息を止めて腹を固める技法。
 「サンチン」は歩の進み方と呼吸法。その呼吸法は鼻から一杯吸って丹田に溜め、それから喉の奥から「ハーツ」と吐き出す。その吐き出す時のうねり声は人を圧倒するひびきがある。
 この呼吸法は太極拳を見ればすぐに判るが、明らかに中国からの伝来である。中国の拳法はほとんどがそのような呼吸法で、これは「唐手」の特徴であり、そのまま那覇手に継承されていく。

<参考(1)沖縄名(原則音読み)>
佐久川寛賀(さくがわかんが)
松村宗棍 (まつむらそうこん)
糸洲安恒 (いとす あんこう)
東恩納寛量(ひがおんなかんりょう)
宮城 長順(みやぎ ちょうじゅん)
知花 朝信(ちばな ちょうしん)
新垣 世璋(あらかき せいしょう)
牧志 朝忠(まきし ちょうちゅう)
安里 安恒(あさと あんこう)
屋部 憲通(やぶ けんつう)
花城 長茂(はなしろ「琉球語では、はなぐすく」 ちょうも)
本部 朝勇(もとぶ ちょうゆう)
摩文仁 賢和(まぶに けんわ)
喜屋武 朝徳(きゃん ちょうとく)
屋比久 孟伝(やびく もうでん)
遠山 寛賢(とおやま かんけん)
上地完文 (うえちかんぶん)

<参考(2)空手系譜>


<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

        ー 続く ー 
   
 2016.7.3  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(5)>
 
 ー手(Tiy)の謂れー

  琉球における戦いは、棒、鎌、ヌンチャク、トウンファー、 ウェーク等の農具や漁具を武器として戦ったのであり、 それらの武器が使えなくなったときは、素手で戦う。まさに 沖縄の昔の武士達はグスクを守るために戦いの中で素手で相手を倒す「イリクミ」の中から「手」(Tiy)の技を編み出したのである。まさしく「手」(Tiy)の原型である。最も特徴とする技は正拳であり、昔の武士は正拳を鍛えるという極めて単純だが独特の技術を編み出したのである。

 『昔から「棒」は手の延長であり、「手」(Tiy)と同じだと言われてきた。つまり、「棒」の型は「手」(Tiy)でもできるし、逆に「手」(Tiy)の型は「棒」でも可能である。このことからして、13世紀ごろから編み出された棒術「前田の棒」「白樽の昆」「大城の昆」等は「手」(Tiy)・「前田の手」「白樽の手」「大城の手」と同じなのである。・・・「前田」「白樽」「大城」(Ufugusuku)というのは沖縄人独特の名前であり、決して中国人や大和人(日本本土)の名前ではないということである。さらに・・・13世紀から17世紀頃までは、武術の名称はその術を編み出した武将の個人的な名前をつけてそれを「手」(Tiy)の呼び名としていたことである。これが、18世紀ごろからは、地域の名称を用いるようになる。たとえば、首里手、那覇手、そして後になって泊手というように個人名ではなく地名に変わってくるのである。』

 <殺人法からの変容>
  戦乱に明け暮れた15世紀中頃まで、戦いの術としての「手」(Tiy)は重要であった。が1492年この戦国時代に終止符を打ち、琉球王国という国家統一を成し遂げたのは尚巴志王。その第二尚氏尚真王が戦さをなくすために中央集権化をすすめ、禁武政策を行う。
 
 『尚真王は地方豪族の武装蜂起を封じ、中央集権化を極力推し進めるために地方の按司をことごとく中央に召喚し、首里城下に住まわせ、刀剣弓矢の類は徴収して公庫に納めさせた。これを第一次禁武政策と呼んでいる。
  この禁武政策により武器を取り上げられたことが、徒手空拳で戦う術とし の「手」(Tiy)の価値をますます高めたことは否めない。戦いを防止するための中央集権制度といっても、各地城には地域を治める地頭がおり彼らはそれなりに権力を行使し、場合によっては強権力でもって治世を行わなければならず、そこにおいては「手」(Tiy)は大きな力を発揮したものと考えられる。また、禁武政策が時の権力者の施策である限り、「手」(Tiy)の研鑽練磨が秘密裡に行われるようになったこともやむを得ないことであった。非公開的な閉鎖的なものとなり、門外不出という「手」(Tiy)古来の伝統は、このような閉鎖性の中で継承されていったのである。
  また「手」(Tiy)が戦いの術である以上、自らの技を他人に知られるということは禁じ手であり、生死をかけた戦いの術なるものは常に秘伝でなければならないのである。・・・ 棒やサイ等の琉球古武術の型は、ほとんどが「首里手」(スイデイ)の型からとられていると言われている。つまり、棒やサイなどの武器は「首里手」の「手」(Tiy)の延長として用いられているのである。ほとんどの琉球古武術の型は、首里手の型を基本としており、首里手の突き、蹴り、受け、四股立ち、前屈立ち、猫足立ち等を基本として古武術の型ができているのである。昔から古武術は首里手から来ていると言われ、首里手の小林流系は古武術を習うのに剛柔流や上地流より有利である、と言われてきた。』
                             
ー「唐手」(Tudiy)の時代ー    

 『「手」(Tiy)は戦乱の世の中から平和な世に時代が変化するに従って、殺人法としての「手」(Tiy)から活人法としての「手」(Tiy)への変容を遂げていったのであるが、さらに時代が大交易時代になって、諸外国と交流が盛んになって行くにつれて「手」(Tiy)に変化をもたらしたのが中国拳法である。この中国拳法が18世紀中頃に琉球に伝わり「手」(Tiy)に変化をもたらした。琉球の武士達は古来の琉球「手」(Tiy)と中国拳法を区別するために、中国から伝播した「手」(Tiy)という意味で「唐手」(Tudiy)と名付けたのである。
  「唐手」(Tudiy)という言葉は沖縄方言で「中国の手」を意味する。従って、「唐手」(Tudiy)という言葉は、18世紀までは沖縄には存在しなかった。それまで存在していたのは琉球古来の手」(Tiy)のみであったのである。・・・ 唐手が世の中に知れわたるようになったのは首里赤田の佐久川親雲上(からであり)・・・
  佐久川寛賀(1733~1815)は、もちろん首里手「手」(Tiy)の名人であり、だからこそ3名の琉球王のご側役として君臨していたものであり、「手」(Tiy)の達人であった。彼は中国に行った時に中国拳法の技を少し学んできて、「唐手」(Tudiy)の存在を沖縄の人々に認知させた最初の沖縄出身の空手家であった。そのために「唐手佐久川」と呼ばれたのである。彼は、有数の武士の家庭に育ち、佐久川筑登之親雲上寛賀と呼ばれ、幼少の頃から武芸に秀でていた。「手」(Thy)に優れた「武士」として琉球王府の役人となり、30代で中国に留学し、その時に中国拳法を学び帰国し、それから中国には琉球の「手」(Thy)と異なる中国拳法・「唐手」(Tudiy)があることを世間に広く認知させたのである。この時から佐久川行う「手」(Tiy)を「唐手」(Tudiy)とも呼ぶようになり、唐手佐久川という名前で有名になった。
  しかし、佐久川寛賀は「手」(Tiy)の達人として「唐手」(Tudiy)の技を琉球古来の「手」(Tiy)に導入した初めての人であったのであるが、彼は結局「手」 (Tiy)の基本をほとんど変えなかった。琉球古来の「手」(Tiy)を守ったのである。その佐久川寛賀から「手」(Tiy)を継承したのは松村宗棍であるが、彼も又「唐手」(Tudiy)の技を知っていたが佐久川師範と同様に琉球古来の「手」(Tiy)にこだわり、そのおかげで純粋な琉球の伝統ある「手」(Tiy)がその後「首里手」として脈々と現在まで継承されることになったのである。もしも、この二人が古来の「手」(Tiy)を「唐手」(Tudiy)の技に変えていたのならば、琉球の古来の伝統ある「手」(Tiy)は現在は残っていなかったのである。佐久川寛賀や松村宗棍がいかに、琉球の伝統武術・伝統文化を重要視し、その造詣に深かったか推しはかることができる。』
 
  佐久川親雲上よりも前に、少なくとも3人の中国人が拳法を伝えた記録が残るが、それは泊手や一部の地域に採り入れられたが、琉球の「手」(Tiy)全体に影響を与えるほどのことはなかった。後に命名される「那覇手」に影響を与えたのであり、 「首里手」についてはほとんど影響を与えていない。
  また沖縄で唐手(Tudiy)をメジャーにしたのは、中国人ではなく沖縄の「手」(Tiy)の名人、「ブシ」(武士)達であった。佐久川寛賀そして松村宗棍、糸洲安恒、東恩納寛量、宮城長順、上地完文と続く。 空手の武術が中国から渡来したとするのは早計で、間違いやすいのは昔の琉球人は武士も百姓も和名と中国名を有していたことを忘れてはならない。当時の琉球にとって、中国はいわゆる宗主国であり、あこがれの国でもあった。

 『現代空手のルーツである「手」(Tiy)は7世紀頃のグスクの戦いの中で誕生し、10世紀頃までには戦いの術として確立され、15世紀までにほとんどその理念である「一撃必殺」の理論は達成され、「正拳による急所への突き」 「腕による受け」 「足による蹴り」等の「手」(Tiy)の基本技は完成されていたのである。それは、現在の空手の技術と全く変わらない高度な完成品であったのである。
  このような完成された「手」(Tiy)の本流にたいし、中国拳法・太極拳等の 「呼吸の方法」に少し変化を加えたり、立ち方にすこし変化を加えたりして本流と異なる「手」(Tiy)を模索したのが「唐手」(Tudiy)であり、俗に言えばこれは亜流ということ になる。本流はあくまでも「手」(Tiy)が本流であり、「唐手」(Tudiy)が取り入れられたからといって大きな本流の流れは変わらない。 「手」(Tiy)は本流の「手」(Tiy)として根幹をなしていたのである。

 ー唐手(Tudiy)を伝承した武士達ー

 <佐久川寛賀>
 人物紹介・ウィキ

 <松村宗棍>
 人物紹介・ウィキ

 『松村宗棍は、30歳足らずで琉球国王の御側役となり、中国や薩摩に派遣されるほどの人物であり、頂点にまで達したその文武は奥深く、品格を備え、もっとも拳法が盛んであった中国は福州の武人達も一目置いていたといわれている。松村宗棍のエピソードとして、女武士と呼ばれたウメとの対決場面がある。一度目はウメを侮り、勝負に負ける
 が、二度目は、熟考の末の戦術で勝った。宗棍はウメと結婚し、役人として、空手家として、ますます精進を重ね、一時代をになう活躍をした。また松村は首里手の大家として知られると同時に唐手の技についても、中国での拳法を自ら体験し、また佐久川師匠から受け継いだ者であることから多少の心得があったわけである。
  松村宗棍は、琉球王国政所に採用される「科挙」の試験に合格し、「士」となった。それは松村が20歳の時であった。官途についた最初の仕事は、彼が稀に見る「手」(Thy)の達人であったことから、1813年第2尚王統17代の王の御側約側役だった。松村はこれを期に第18代尚育王、そして運命の明治維新を迎える最後の琉球王第19代尚泰王と三代の王に仕えることになる。彼は生涯、中国と薩摩に2度づついっている。・・・
  薩摩では、剣術の示現流の手ほどきを修得した。彼は六か月間の修行で示現流の免許皆伝を許されたと謂われるが、それは、彼が琉球王の御側役という特別階級にあったことから名誉の意味で授与されたもので、正規の免許皆伝ではない。僅か六ヶ月で免許皆伝が許されるような武術というのはあり得ない話である。従って、松村が示現流の達人などと記述しているのもあるが、これは真の示現流の達人に対して、迷惑な話である。また、示現流のみならず他の剣術、柔術、唐手術の武道の達人から謂わせても、甚だあり得ない話なのである。
  したがって、松村の「手」(Tiy)の術に関して、示現流を持ち出す見解もあるが、これは全く誤った見解であると謂わざるをえない。彼は、単に示現流の手ほどきを受けたに過ぎないのであり、あくまでも名誉の皆伝者に過ぎないのである。彼は「手」(Tiy)の達人であって、剣術(示現流)の達人ではないのである。
  松村宗棍は武の七徳として「武は暴を禁じ、兵を、人を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和、財を豊かにす」とし、それを実践した人である。彼は以降「松村の前に松村なし、松村の後に松村なし」という格言を残すほど、首里手の始祖とし 今日では非常に重要な位置を占めることになった。しかし、首里手とか那覇手と言うのは、琉球古来の「手」(Tiy)が18世紀頃まで達人である個人の名前で呼ばれていたのに対し、その後、「手」(Tiy)が密かに地に伝わっていくに従って地名で呼ばれるようになっていたためである。
  (前に触れたが)首里手とか那覇手とかいう以前は「大城の手」「白樽の手」「真壁の手」などと個人の名前をつけて呼んでいたのである。従って、首里手も那覇手も琉球古来の武術であり、同じ「手」(Tiy)であったわけである。
  佐久川寛賀や松村宗棍が古来の琉球の「手」(Tiy)の優れた武士で、その「手」(Tiy)に中国拳法「唐手」(Tudiy)の技を多少導入したために唐手佐久川などと呼ばれたが、実際は古来の首里手の達人であったことに変わりない。
 この二人の「唐手」(Tudiy)に対して、全く新しい本格的な中国拳法の「唐手」(Tudiy)を「手」に導入したのが、東恩納寛量であった。彼の出現によって本格的な「唐手」 (Tudiy)が確立された。』
 
          ー 続く ー
 
<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

          
   
 2016.05.21 <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(4)>
   
ー沖縄の歴史ー

  純粋に沖縄の歴史を見てみよう。沖縄コザ生まれの恵隆之介の著「新・沖縄ノート」が判りやすく当を得ている。嘉永六年(1853年)、沖縄に寄港したペリー提督が「メキシコの労働者を省けば、これほどまでに不幸な生活をしている人民は 世界に見たことがない」と述べているほど、琉球王国民衆の 生活は凄惨を極めていた。
  王府の下、土地私有は一切認められず、八公二民の重税に住民の90%の平民はまさに農奴と化していた。これは(2)で触れた小説 琉球処分 大城 立裕(沖縄出身)著でも読み取れる。が、本題は飽くまで沖縄空手「手」なので必要最低限の記述としたい。

<中国の強い影響下におかれた二百三十七年>
  『沖縄の歴史が明瞭になってくるのは12世紀頃からである。源為朝が沖縄島南部に居住する豪族の娘ともうけた舜天(しゅんてん)が王となり、沖縄を統一したといわれている(第一尚氏)。余談になるが、沖縄の旧家の長男の名前に「朝」の字が多いのは、この為朝にあやかりたいという願望が込められているのだ。
  1372年、舜天の子孫の察度王(さっとおう)が明の光武帝に入貢したことが中国の記録に残されている。これは、明国皇帝が琉球に朝貢を求めてきたことから始まったとされている。当初、恐る恐る従った琉球は、その莫大な返礼を見て驚嘆した。以降、これを「唐一倍」(とういちべー)と呼んで、十割近い儲けを甘受するようになる。この華夷秩序への参入が、沖縄住民の進取尚武の気概を奪った。それまで住民は小舟サバニを操って、南はマラッカから六裏まで盛んに交易し、進取尚武の気性を遺憾なく発揮していたのである。
  その後、第一尚氏は七代四十八年で絶え、1469年に尚円が第二尚氏を形成する。以降、廃藩置県まで王城は首里に設定された。
  尚円の子、尚真は1447年に即位するや刀狩りを行い、按司(武装有力者) を首里に住まわせ、各領地には代官「地頭代」を置いた。さらに石垣、宮古、奄美五島を武力併合し、中央集権国家を確立した。
  離島農民には人頭税を含む本島の三倍の重税を課し、朝貢貿易のボリュームを拡大する。しかし尚真の最大失政は、華夷秩序に依存した文官独裁国家を形成したことにあったのである。明は建国以来、鎖国政策をとっており、外国船の出入港も朝貢船に限定したうえ、冊封国に中国人を在留させて朝貢貿易の政務を担当させた。目的は間接支配を確定することにあったのだ。琉球も、薩摩藩が侵攻する1609年までの約二百三十七年間、中国の強い影響下に置かれた。
  現在、那覇市内に久米と呼ばれる地域がある。ここは十四世紀以来、中国人の居留地域になっていた。久米はいまでこそ那覇と陸続きになっているが、十八世紀ごろまでは浮島と呼ばれ、久米はその入り江にあったのだ。浮島の東北約1.5キロの地点に安里川の河口があり、それを西へ辿っていけば 約2キロの地点に首里城がある。要するに、浮島は琉球を制圧する点からも絶好の位置にあったのだ。
  その外洋進入口にあった北側に三重城(みえぐすく)、南側に屋良座森城(やらさもりぐすく)があり、それぞれ北砲台、南砲台が設置されていて、倭寇の進入に備えていた。加えて寛永二十一年(1644)、明国が滅びて清国が成立したとき、満州族の支配を忌避して明人、すなわち漢民族の三十六姓の部族がこの島へ移民してきた。仲井眞弘多、稲嶺恵一元知事は、いずれもこの三十六姓の子孫である。
  久米は、亡命者から琉球の監視役まで中国人の租界地をなしていたといえよう。琉球で名司政官と称された蔡温(さいおん)や程順則(ていじゅんそく)はこの久米の出である。ここでは十九世紀になっても中国語が話されており、日清戦争の終了まで沖縄をことごとく中国圏内に留めようと画策していた。そして現在も、約三千人の県民が中国子孫を自認しており、約十億円の共有貯金と会館を運営し、なお団結は固い。・・・

  一方、この頃に使われた琉球語は日本語の姉妹語で、一千数百年前に同一の単語から分離したものだといわれている。したがって、日本古語を含んでいることから1646年、琉球の歴史家でかつ王府の官僚であった羽地朝秀(はねじちょうしゅう・中国名:向象賢しょうしょうけん)や、明治五年頃の三司官・宜湾親方朝保(中国名・向有恒しょうゆうこう)などが日琉同祖論を主張している。なお、「親方」は王族以外の者の最高位の称号である。
  琉球には仮名文字が十二世紀に、漢字が十三世紀にそれぞれ伝来しており、王国の公文書や実用文には和文を、中国向けには漢文が用いられた。琉球文学は琉球語を仮名で表現する手法がとられ、その大成として沖縄の万葉集と言われる「おもしろそうし」全二十二刊がある。「おもしろそうし」は海洋民族としての古代琉球の民族、信仰などを詠っており、その文学的価値は現代も高く評価されている。

<1609年、薩摩藩の支配下におかれる>
  秀吉は天正十九年(1591)、文禄の役の前年、薩摩藩を介して琉球に出兵を促してきた。薩摩藩はことの時、琉球兵の戦闘力を疑問視し、王府に対して「七千人分、十ヶ月分の兵糧だけは送られたい。また名護屋城築城に向けては、金銀米穀で助成されたい」と伝えてきた。驚いた王府は、明国にこの情報を通報したのである。
  「琉球は戦略的な要所である。これが明国攻撃の拠点になればそれこそ一大事だ。ただでさえ東シナ海沿岸は倭寇の脅威に曝されている」
  そう考えたであろう明王は1606年、尚寧王に冊封を授け、王の序列に引き上げた。すると尚寧王はこれに慢心し、薩摩の使節を侮辱したのである。
  鹿児島県史によれば、琉球は七千人分の兵糧の半分は納めたものの、残りは薩摩に負債したままで国交を断絶、しかもその後、琉球船が難破し、奥州(東北地方)に漂着したため、幕府は薩摩に命じて琉球に送還させたが、王府は何の返礼もしなかった。
  一方、薩摩藩は慶長五年(1600年)、関ケ原の合戦以降、外様となっており、財政難に陥ったこともあって琉球の朝貢貿易に着目する。薩摩軍は慶長十四年(1609年)に、約三千人の部隊をもって琉球に侵攻した。
  ところが、琉球士族は尚真王以来、家禄を貰って首里城下に住み、公家のような奢侈な家禄生活を送っていた。彼らにかっての尚武の気質は 微塵も残っていなかった。薩摩軍は那覇港入り口の強力な南北砲台を避けて本島北部の運天港に 上陸し、陸路南下して一気呵成に首里城に進出した。琉球から奄美五島の支配権を奪取し、薩摩に最後まで敵対した中国移民子孫、三司官・鄭迵(謝名利山しゃなりざん)を薩摩に連行し、斬殺した。
  島津家久は尚寧王以下、百余名を江戸や駿府に帯同し、徳川家康、将軍秀忠に拝謁させた。こうして島津氏は、幕府より琉球太守を任ぜられた。財政難にひんしていた薩摩藩は、ここで息を吹き返す。鎖国化、南西諸島方面の黒糖を大坂で独占販売し、また中国と交易した。しかも、そのボリュームを拡大するため、北海道から昆布などを調達し、薩摩の役人が琉球王府役人に扮して進貢船に乗り込んだ。
 中国側もこれを見抜いていたが、貿易のパイが拡大することとなり、否定するものではなかった。
  江戸時代の享保四年(1719年)に来琉した清国冊封副使・除葆光が首里城で儀式の当日、北殿にいる薩摩武士がその光景を覗いているのに気付き、「南殿有客」と王府通訳にブラックユーモアを飛ばして王府官吏を狼狽させている。琉球王府は北殿を日本式に、南殿を中国式に建造し、それぞれの使節を歓待したのである。加えて対中外交上、薩摩のプレゼンスをもって有利に展開させるべく、薩摩武士の子を宿した地元女性は、平民であれば直ちに一族を士族に引き上げた。また、薩摩藩を「御国元」と呼称し、幕府への取り次ぎすべてを頼った。

  ところが、朝貢とセットになっている冊封使の接待にはコストがかかった。江戸時代後期、清国の衰退と経済のグローバル化に伴い、この冊封使の 接待が王国の財政を圧迫し、朝貢貿易の利幅は激減していた。朝貢存続のため、 王府は薩摩藩から借金するようになっていたのである。
  一方、中国貿易で経済力を得た薩摩藩は、明治維新の原動力にこの資金を投入していった。そして慶応三年(1867年)に徳川幕府を倒し、翌明治元年(1868年)、新政府を樹立した。以降、近代国家建設に邁進するのである。』

                  - 続く -

 <注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」
  
   
 2016.04.23.  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(3)>
 
 ー「手」(Tiy)誕生の背景ー

 『空手道は琉球が発祥の地である。琉球には7世紀からグスク・城が存在し、多くのグスクの按司達がその覇権を競って戦争を行っていた長い戦乱の歴史を有している。その戦いの武術として使われたのが琉球独自の武術「手」 (Tiy)なのである。どうして琉球に「手」が発祥し、発展していったのか。その鍵を握るのが琉球のグスク時代、琉球王国の形成過程、明朝(中国)との冊封関係、琉球国王・尚真王の刀狩り、琉球の大交易時代、薩摩の侵攻と禁武政策等といった歴史的背景と深く関わっている。そのような、琉球の歴史的背景を抜きにして沖縄の「手」について語ることは困難である。何故なら
 「手」は琉球の歴史と共に生まれ、育まれ、継承され、発展してきたからである。従って、沖縄空手について知るためには、空手が琉球で「手」として発達してきたその背景となっている琉球の歴史について先ず観ておく必要がある。』

<注>沖縄用語の説明
・グスク:沖縄の古い言葉で、城(しろ)のこと。中城(なかぐすく)・玉城(たまぐすく)などの 地名や姓に残る。
・按司:(あんず。あじ)琉球の旧官名。一府を領する領主・諸侯。旧官制が廃せられてからは一間切(まぎり)(村)を与えられた王家の近親をいう。。
・冊封:(さっぽう)古く,中国で冊をもって爵位を授けること。また,その書状。冊封の対象は内臣(国内の臣)にとどまらず,外臣(周辺国の君主)にも及んだ。
 

<名称の由来ー琉球と沖縄>
 中国の隋の時代は琉球、元の時代は琉求、明の時代は琉球と称している。ところで中国では、沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼んでいた。沖縄の名称は、変遷を経て島の形が南北に細長く沖に縄をを浮かべたようだと、いうことで、新井白石(1657~1725)がその著「南島志」に用いたのが現在の沖縄になったと言われている。
 
『「琉球」が中国名で「沖縄」が和名であるといえる。同じように沖縄においては、人の名前も大和名と中国名があり、廃藩置県以前まで多くの琉球人が和名と唐名を持っていた。例えば、首里手の祖と言われている武士松村親雲上の大和名は松村宗棍であり、唐名は武成達なのである。・・・人物名や型の名称が中国名になっているからと言って、この人物が中国人とは限らないのである。琉球人も当時は唐名を持っていたからである。
  史書に現れた年代からすると「琉球の名称が「沖縄」より148年も早いことになり、「琉球」は日本よりも中国との関係が密であったこと物語っている。現在、「沖縄」という言葉が定着しているが、歴史的には「琉球」が1千年以上使われ、「沖縄」が表に出て来たのは明治政府が琉球処分をして琉球王朝を解体した1879年からであり、わずか130年ほどの歴史しかないのである。
  中国人の多くは今でも、沖縄のことを親しみを込めて「琉球」と呼ぶ。台北・那覇間を飛んでいる中華航空に台北から搭乗した人は行先の表示を見てハタと驚くことであろう。行先は沖縄ではなく「琉球」と今でも表示しているのである。まるで、明治政府が強権で「琉球」を「沖縄」にしたことを今でも認めていないと主張しているかのようである。』

 300のグスク? あの狭い沖縄で、との印象を持つかと思うが、沖縄本島に西表島・石垣島・宮古島・八重山諸島など161の島、東京都や大阪府、香川県より広く、沖縄県を独立国と考えれば、その面積は世界232ヶ国中178位にあたり、つまり、沖縄県より狭い国が50カ国以上あることになる。

 DNA鑑定によれば日本人はほぼ韓国人と近しく、それと比べて沖縄人とアイヌとはほど遠いことに著者は触れる。
<琉球人>
 『---中国大陸から離れて琉球列島が形成されたのは今から約2万年前である。 ---宝来聡の「DNA人類進化学」では---
 アイヌや琉球人を縄文人、本土日本人は弥生人であるとし、さらに、アイヌと琉球人は互いにある程度の遺伝的近縁性はあるが、弥生期の移住が始まったころには、別々の集団として存在していたと主張している。この宝来聡氏の主張が正しければ、琉球人と本土日本人とは先祖、人種が違うことであり、このことは何をする上でも決定的な要因となる可能性があることを我々は充分に認識する必要がある。
  つまり、縄文人の子孫である琉球人が「手」を発明し、弥生人の子孫である日本人が「手」を改良し、「空手」を発達させた、ということに他ならない。』

<戦乱のグスク・按司時代>
 『「隋書琉球国伝」や「続日本紀」によると、7世紀初めの琉球には、権力の強い王は各地域を統括し、各集落単位で「小王」がいて、その地位によって位を与えられ、なんらかの階級制が形成されていたと考えられる。このような小按司が農地の獲得等の理由により次第に領域を拡大するようになり、隣国を統合するようになるとそこには次第に大きなグスク(城)ができ、次第に大きな権力を有する按司が統治するようになっていく。このようにして、11世紀には城壁を築いたグスクが形成され、土器も制作されるようになった。そして、12世紀になると、浦添城の高麗瓦が造られた。城の屋根には瓦が使われ、本格的なグスクが建築されていたのである。舜天が浦添グスクの按司になったのは1180年のことである。
  琉球王朝時代は1187年舜天王が即位した時に始まり、1879年廃藩置県による琉球王朝の解体までの692年間である。これは源頼朝が鎌倉に幕府を開く1192年より前から南北朝時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代を経て明治時代(明治11年)までの間である。戦乱の按司時代における琉球には約300のグスクがあった。』

<琉球の戦国時代>
 『国家形成過程においては、いかなる国においても、強い国(村集落)が弱い国(村集落)を滅ぼして統一を図って国家統一へと進むのである。そしてそこにはすさまじい戦いが繰り広げられるのである。琉球においても然りである。グスク時代は按司の時代であり、300以上のグスクの按司たちが戦いを繰り返し勢力を拡大していく群雄割拠の時代でいわば戦国時代であった。
  日本本土と沖縄における有力な首長の出現、地域集落の統合、「小国家」の形成の時期は約900年もの時代的落差がある。本土日本で紀元前3世紀頃から始まったこれらの国家形成過程は沖縄においては西暦600年頃から始まったのである。しかも、この両者に於いて決定的に異なるものがある。それは、戦いに使う武器である。本土日本には紀元前3世紀頃から多くの鉄や青銅が生産され、よって剣、矛、槍、刀子、太刀等の武器が造られたため、これらの武器によって戦いがなされたのである。
  しかし、沖縄においては、鉄が生産されない。鉄は本土日本か中国から輸入しなければならないのである。従って、当時沖縄においては戦の時に使用された武器は、農具として使用されていた「棒」、豆などの穀物を脱穀するために使用する「トンファー」、馬の鼻の上に取り付け、手綱を通して馬の進行方向などを指示するための馬具として使用された「ヌンチャク」や漁師がサバニを漕ぐときに使用する「櫂」等であった。そして、いわゆる武器らしい武器といえば、数少ない短刀であったにすぎない。「随書東夷伝」の記述から、棒の先に動物の骨や角を利用して鋭い矢じりを造り槍として使用していたことが伺える。

  これらの武器は戦の武器としては、初歩的な武器であり、殺傷能力の点においても貧弱な武器である。しかし、当時の沖縄に於いてはこのような武器しかなく、これらの武器を使用して戦ったのであるが、これらの武器は素手の延長でしかない。戦いの中で、棒が折れたり、トンファーやヌンチャクが相手の棒等で弾き飛ばされたりすることが容易に考えられる。
 このような状況になったときに、人間は自己の生命を守るために最も原始的な方法である素手により戦わなければならない。ここに「手」が武術として発達した理由がある。
 沖縄においては鉄が生産されず、まとまった量の鉄が入って来たのは尚巴志の時代、15世紀になってからである。

  このように長期間に亘り、棒・サイ・ヌンチャク・弓矢・小刀等を武器として戦い、最後は素手で戦う沖縄の特殊な戦闘方法は、「手」(Tiy)という独自の武術を生んだ。「手」は武器を使って戦ったあとの武器を失った唯一の自らの命を守る戦いの術であったことから、素手による様々な技を編み出さなければならない必然性があった。「手」は、突き・蹴り・受けを基本として、一撃で相手を倒す技を編み出した戦いの術である。拳を石の如くに鍛え、四肢を鋼のように固め、胴を鉄板の如くに鍛えて鎧とすれば、素手による戦いにおいては敵なしである。例え相手が棒を以って振りかざそうと普通の棍棒であれば、腕による受けによってそれをへし折ることも十分可能である。また、例え下半身に対する棒の攻撃であっても足のスネや太ももで攻撃を受けることにより棒をへし折ることは十分可能である。このように、何世紀もの長い間の戦の方法として培われ鍛錬された「手」という素手による最も実践的な武術が戦いの術として生まれ育まれていったのである。

  この長い戦乱の世において、琉球人は戦いの術として、琉球独自の「古武術」と「手」(Tiy)を編み出したのである。この「古武術」も「手」も戦いの相手を殺すための殺人技であった。その殺人技は秘密裏にグスク内に伝承され高度な殺人技へと発達していくのである。琉球の空手が単に中国やインドから伝来したかのような考えが一部存在するが、沖縄古来の空手として沖縄で1千年以上も伝承されてきたという歴史が示すように「手」は沖縄のグスク時代という独自の戦乱の争の時代に於いて誕生し、これが長年の戦いの中から実践として使用されて来たからこそ、この沖縄という土地にずっと定着しているのである。外来文化が沖縄に伝承されたのであれば、このように沖縄に長年に亘り、しかも本国にもないような技が生き残っている訳がないのである。』
                - 続く -

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

   
 2016.03.03  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容(2)>
 
<まず空手発祥の地・沖縄の空手事情は?>
 沖縄空手界は大きく言えば世界の空手界がスポーツ空手と武道空手に分れて独自の主張しているのと全く同じような状況にある。

 スポーツ空手とされる全空連(JKF)・世界空手連盟(WKF)及び沖縄県空手道連盟にリンク(所属)しているグループ(空手集団)は沖縄空手界の約3割を占めている。これらの団体は。文科省管轄の日本体育協会の認可団体で補助金(助成金)を受けている。当然、高校・大学の空手は全空連空手になる。
 一方、このスポーツ空手を提唱する沖縄県空手道連盟に加盟しないで、武道空手いわば琉球古来の伝統空手を推進しているのが沖縄県空手連合会。この団体も約3割を占めているが、同じ道場がこの両方に加盟しているケースもあるので、若干数字は下回ると思われる。

 『沖縄でもっとも多いのは、全空連や沖縄空手道連合会の何処の組織にも属さない会派・道場である。昔からの小さな道場で、古来より伝授された琉球伝統空手を黙々と独自に鍛錬し、僅かな門下生を相手に伝承していくいわゆる町道場である。そのような町道場が沖縄に於いては大多数である。その構成比は過半数を超える。このことは、非常に重要な意味を持っている。沖縄の町道場は、全空連に加盟してインターハイとか団体選手とか、華々しく新聞で取り上げられたり、テレビに出演したりするスポーツ空手を目指そうとしない。
 また、そうかといって、沖縄空手道連合会に加盟してみんなと古来琉球空手がそうであったように、空手は人に見せるためではなく、自らの鍛錬のためにするもので、従って競技に出たり、日本一になったり、世界一になることではないからである。黙々と自らの心に問いかけそしてその答えを自ら探し出す、自問自答が鍛錬である。そこにあっては、全空連に加盟する必要性は全く見いだせないのである。むしろそのような団体に加盟することによって、琉球古来の型「セーパイ」を全空連の指定型「セーパイ」に大きく形を変えなければならない。琉球古来の型「パッサイ大」を全く異なる全空連の「パッサイ大」に変える等と、もし昔の琉球の空手の師範が見たら破門されるのは間違いないような伝統型を勝手に直すというような愚かで罪悪な行為を易々と実行する沖縄の空手家はほとんどいないのである。このようなことを平気で行えば、これまでの古来より継承された空手に対する師への裏切りであり、空手道の精神に対する冒涜ですらある、という認識に立脚しているからである。全空連がやっている空手は沖縄伝統空手ではなく日本本土の人が勝手に創った空手であるという理由で全空連に加盟しないと言うのであれば、何故沖縄伝統空手の育成を称する沖縄空手連合会に加盟しないのか。
 その理由はいろいろあると思われるが、沖縄空手家の多くが、自分が教授された唯一の師範の空手を忠実にやることを空手の神髄と考えているからである。・・・欧米人の空手家のように、自分に有益であれば、、流派に関係なく、自分の師範に関係なく、どこの流派のどの先生からも空手を習うなどという合理主義は沖縄の空手家にはないのである、武道とか伝統とかいっても流派会派のちがう団体が一緒の団体を作って一体何をやろうとしているのか、そもそも武道・伝統空手というのは、師の教えを全く変えずに、そのまま踏襲するところに意味があるのであり、そこに他の団体・師が集合しても特に何のメリットもないのではないかという考えである。』

 このような理由から沖縄の約5割の町道場は、形式上はどちらかにまたは両方に加盟している道場があるとしても、精神上または実質的にどの組織にも加盟していないというのが現状であるが、それにしてもこのすさまじいばかりの、沖縄空手家の全空連空手への嫌悪感はどこから来るのか。
  「空手の琉球処分」と言われるごとく、その底流にある歴史的事実「琉球処分」を知ることを避けては通れない。

<琉球処分>

 云々するより比較的、偏りのない資料を挙げてみよう。

「琉球(りゅうきゅう)」
・中国によって名づけられた沖縄の国名。古くは流求、流鬼などと 表記された。1383年、明国は琉球と命名し以降は琉球に統一 された。琉球国は冊封を受け入れ中国と友好関係を長く続ける こととなる。1871年、日本で廃藩置県が行われ、それに伴い 琉球は鹿児島県の管轄下に置かされるようになり、続いて 琉球処分が強制的に行われた。清国への朝貢と交流を差し止め、琉球王は東京に住まうこと首里城は明け渡し、王府は解体することなどがその内容だった。1879年、日本政府は400名の部隊で首里城に乗り込み沖縄県設置を宣言した。3月31日に、時の尚泰王が首里城を明け渡し琉球を離れた。
 こうして、長い間続いた琉球王国は強制的に幕を閉ざされた。
 (沖縄大百科 )

「琉球処分」
・明治政府のもとで琉球が強制的に近代日本国家に組み込まれていった一連の政治過程。1872年(明治5)琉球藩設置に始まり,79年の沖縄県設置に至る過程をいう。これによって琉球王国は滅びた。(三省堂 大辞林)


・1872年の琉球藩設置から1879年の沖縄県設置を経て、強権的に琉球を日本の一部に位置づけようとした日本政府の一連の政策をいう。当時、琉球王国の体制 そのものには大きな影響はないだろうと高をくくっていたが、ことの重大さに気付き、明治政府の命令を拒否し嘆願を繰返したが、琉球処分官に任命された松田道之は1879年 (明治12年)3月27日、警官・軍隊400人の武力を引き連れ首里城に乗り込み、廃藩置県をおこなうことを通達。 
 そして3月31日に首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、4月4日、琉球王国は沖縄県となった。
 ( Weblio辞書 )

・小説 琉球処分(上)(下)大城 立裕 著(講談社文庫)
 その頃の琉球事情および琉球処分の経緯が実によく解る秀逸本。

・21世紀の琉球処分 
 作家佐藤優 ・元外務省主任分析官。ちなみに佐藤優の母方は沖縄出身。 琉球併合だけではなく、日清修好条規(1871年締結)にうたわれている日本の最恵国待遇規定をさらに有利に追加するため1880年清国に対して外交的折衝にて宮古・八重山(やえやま)を割譲するとしたことを指摘し、きびしく批判している。
 琉球からの再三の懇請もあり清国は拒否の姿勢を保つが、最終的には日清戦争(1894~95)で日本が勝利することにより終止符が打たれた。
  ・薩摩の「琉球侵攻」、明治政府の「琉球処分」を振り返る。
ネット「薩摩島津氏の琉球侵攻」

 資料提示が長くなったが、「手」の著者は琉球処分は三次までありとする。
 先ず、既述の
<第一次琉球処分>
  『1868年、明治維新によって近代国民国家の道を歩み始めた日本政府は、琉球王朝を解体することを画策し、1872年琉球藩設置、尚泰王を藩主にし、琉球の外交権を停止した。琉球王朝を琉球藩として日本本土の藩制度に同化し、琉球の最後の王「尚泰」を強制的に琉球王から藩主とし、王朝制を廃止したのである。琉球王朝は激しく抵抗したが日本政府は軍隊を派遣して武力で琉球王国を解体した。 この時の軍隊は6千名であった。
  そして、1879年、中国・清国の抗議にもかかわらず、琉球藩を沖縄県とし、尚泰王を強制的に東京に連行して東京に住まわせることとし、これによって550年も続いた琉球王朝は解体されたのである。これらの日本が沖縄にやった行為、つまり武力を持って沖縄を併合したことを「琉球処分」という。
  この第一次琉球処分のきっかけを創ったのは、1871年の宮古船の台湾遭難事件である。台風で台湾に漂流した宮古島の武士たちが台湾人に殺害される事件が起こった。
 これを奇禍として日本は、中国に抗議するも中国は相手にしなかったことから、1874年日本軍は台湾に出兵したのである。このことによって、日本政府は琉球は日本のものであることを対外的に誇示したのである。』

 そして
<第二次琉球処分>とは、
  『第二次世界大戦終戦後の1946年から1972年までの沖縄米軍民政府による植民地政策である。敗戦になって日本政府は、GHQ覚書により北緯30度以南の南西諸島、つまり琉球を日本から分離してアメリカに売り渡した。イヤ、売り渡したのではなく、米軍が沖縄を統治することに同意したのである。つまり、米国の植民地化を認めたのである。
  このことを、沖縄の人は、日本が沖縄をアメリカに売り渡したと表現する。日本人の魂をアメリカに売ったのである。
  それからというのは、沖縄は琉球政府という植民地政府が樹立され、アメリカ政府の監視化の基で、まるで独立国と同然に、三権が分立した行政機構を有し、日本本土に行くにも、独自のパスポートが必要で、使用する貨幣は米軍の軍票という貨幣、B円という貨幣、そして米ドルという貨幣というように目まぐるしく変わる生活を余儀なくされた。
 沖縄人は日本とアメリカの両国の狭間でトカゲのしっぽのように切り捨てられたのである。』

<第三次琉球処分>は
  『沖縄が日本復帰した1972年以降である。つまり、日本政府は1972年5月15日、米軍の植民地となっていた沖縄を再び併合することに成功したのである。しかし、領土を取返し、沖縄県民は琉球国民から日本人へと正式に認証されたものの、米軍はそのままのこり、実態は未だアメリカの植民地のと変わらない状況で、ベトナム戦争や不発弾の爆発、米軍機の墜落事故による県民の死傷事故、ヘリコプターの墜落事故、米軍兵隊の凶悪犯罪などによる沖縄県民が被る多大な損害は、日本全国で米軍基地が存在する面積の75%を沖縄に押し付けるという日本人のやり方を第三次琉球処分というのである。
  それは、現在まで続いている。』

本論の
<空手の琉球処分>に移ろう。
  『沖縄の空手界は、1981年当時まで全日本空手連盟とは全く関係のない独立した団体、「全沖縄空手道連盟」と「全沖縄・古武道連合会」の二大組織をはじめ各流派で30以上の組織に分れており、しかも、全流派とも空手の本場は沖縄であるという誇りと気概が強くあったため、誰一人として日本本土が創った全空連に加盟しょうなど思うものは皆無であった。全空連の幹部達のほとんどは沖縄の先生によって空手を教えられ育てられた門下生・弟子であり、そのような自分の教え子達が作った全空連等という組織に入る必要性は全くなかったのである。
  また、全空連の幹部連中も自らの空手の師範にたいして自分達の作った組織に加入してくれ等と言った無礼千万なことをいう恥知らずなことはできなかったために、全空連が結成され、日本全国の都道府県が加入し、15年の年月が経っても沖縄県だけは加盟しなかったのである。
  しかし、全空連としては、どうしても最後の砦である沖縄を全空連に加盟させて実質上全国に全空連空手を画一的に普及発展させなければ日本国の面子がたたない。空手の本場は沖縄であると言われ、日本本土の空手は本物の空手ではなく、沖縄空手が本物の空手であるという認識がアメリカの在沖米軍人等を中心に世界に浸透していく事に危機感を感じ、いつまでも沖縄を勝手にさせておくわけにはいかないという焦りが見えて来た。
  そこで、全空連の当時の会長・笹川良一会長は沖縄県内の有力空手家の何人かを一本釣りして東京の全空連に呼んだのである。もちろん、県警察と関わりのある、長嶺将真、宮里栄一(2人とも元警察官)を警察庁の筋をとおして説得し、残りの3、4人を東京に呼んで説得して説き伏せた。そこで沖縄に全空連の県連支部が誕生する事になるのである。
 そこには・・・
  そのような「手」(Tiy)から相当かけ離れた「空手」を沖縄の「手」(Tiy)本場の空手家が簡単に受け入れるはずはなかったのは容易に想像できる。全空連への加盟にはほとんど耳をかさなかった沖縄の空手家は、全空連と沖縄県体協の 「全空連に加盟しなければ国体に参加できない」という強権的な 手法に大きく反発し、沖縄空手界は多きく揺れに揺れた。
 「空手の琉球処分」はこのような状況下で行われたのである。』
              - 続く -

<注>敬称略、『 』は抜粋引用文、・・・は「中略」

   
 2016.1.19  <沖縄伝統空手「手」Tiyの変容>
   
 ようやく出会えた表題の本。沖縄空手の全容が解ると云っても過言ではない、沖縄出身・在住の空手家・野原耕栄氏が世に問うた乾坤一擲の力作。 「沖縄空手」の由来、本土空手(全空連)との関係、経緯、相克が如実に解る目から鱗の空手界俯瞰本。
 サブタイトルに「手」(TIY)を知らずして「空手」を語ることなかれ、とありいみじくもイントロには『琉球王国形成の歴史的背景を礎として沖縄で誕生し発展を遂げ、確立された沖縄空手「手」(Tiy)は日本本土に伝播して「空手」となり、そして今や世界150ヶ国、5000万人の空手人口を抱えるまでに普及している。今後もその拡大の勢い続くと考えられる。このように、空手の「国際化」が急速に進む状況の中で、空手に対する認識は本来の伝統的なものから大きく変化してきている。端的に言えば、元来は自己防衛の為の戦いの術で、「武術」として興った空手は、長い歴史のなかで殺人技から活人技へと発展を遂げ、そしてさらに心身の鍛錬・修養・礼法を目的とする「武道」として確立されたものであるが、戦後急速に国際化するに伴って、今や単なる「スポーツ・競技・ゲーム」のように考えられるようになり、勝敗にのみこだわる競技へと変化している状況が見られる。このような現状に照らすとき、空手の将来に対しては危惧を抱く空手家も少なくない』とある。

 また全空連ルールの大会に沖縄伝統空手家が出ても、上位どころか1回戦もクリアーできないだろうと作者は喝破する。

 沖縄空手家が最も懸念することは
『空手は戦いの武器であり、一撃必殺の技の習得であった。それは、戦いにおける生死を分ける技の鍛錬であった。ところ空手が日本本土に伝播して後、ルールを作って寸止め組手なる競技を作りスポーツ化されてしまった。そして、否が応でも多数決により少数派である沖縄の空手も多数派である日本のスポーツ空手をするよう仕向けられている。これ以上空手をスポーツ化していいのか』
 沖縄の空手の長老達のほとんどが同じような懸念を持ち、船越義珍も競技化・スポーツ化には反対だったという。

して、沖縄空手の普遍的規範は
<沖縄伝統空手十箇条>
1.沖縄伝統空手の起源は、琉球の「手」(Tiy)から始まったこと。
2.沖縄伝統空手「手」は、グスク時代の戦いの中から生まれた武術であり、武道であること。
3.沖縄伝統空手は、「小林流系」「剛柔流系」「上地流系」の三つに限られること。
4.沖縄伝統空手は、一撃必殺を旨としてあくまで武道として伝承されるべきであること。
5.沖縄伝統空手は、巻き藁による正拳を命とし、「型」「古武道」「カキダメシ」のみを行うこと。
6.沖縄伝統空手は古来からの伝統の「型」を少しも崩さないで原形のとおり  行うこと。
7.沖縄伝統空手の鍛錬は、それぞれの伝統の「型」があり、初心者から高段者になるにつれて鍛錬する「型」の順序があり、順序に従ってその通りやらなければならないこと。
8.沖縄伝統空手は、礼、敬、義、仁、誠、忠などの武士道精神を支柱として鍛錬を行うこと。
9.沖縄伝統空手には、勝敗はないこと。
10.沖縄伝統空手は、沖縄空手を沖縄の伝統文化として保存し、「型」が保存されたまま 世界に発信する責務を負うこと。

 まさに面目躍如たる規範だが、では次回から本書の肝要な部分を順を追って見てみよう。
            - 続く -

<注>敬称略、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」

   
 2015.12.17  <柔道の精神がフランスに>
   
 空手の制度は柔道に学ぶところが多いが、その柔道はフランスでまさに根を張り開花している。柔道人口(日本16万、フランス60万)もさることながら、指導者は国家資格制で、指導者のレベルアップとともに、雇用先を確保して職業化が推進されている。一方、本家・本元の日本の市民指導者は一部の恵まれた人を除けば、現役を過ぎると「生涯柔道」とは縁遠く、リタイアーを余儀なくされる。指導者不足になるわけだ。

 ひたすらにメダルを目指す日本と違って、礼儀・作法・健康・精神の鍛錬などを学ぶ場として社会に認知されているフランス。 「柔道の創始者・嘉納治五郎」が唱えた「精力善用 自他共栄」の精神に象徴される人間教育としての柔道。
 「その柔道の理念が今では日本よりも根付いている」と誇らしげにパリの指導者たちは講道館(日本)に敬意を払いつつも胸を張る。
 
 思わず空手の将来に想いを馳せる。

(当HP「参考資料」参照、読売15.12.11参考)

<参考ネット資料>
世界の柔道事情 フランス・パリ
http://www.judo-ch.jp/world/fr/

フランスで柔道が日本より人気になってた。
http://matome.naver.jp/odai/2137730937029869901

「フランスにおける柔道は、もはや国技である」――
ミッシェル・ブルースさんの講演会を聞いて
http://www.hinomaru-kids.jp/kizuna/?p=969

講道館柔道の創始者・嘉納治五郎の精神と名言
http://matome.naver.jp/odai/2136020585081634101

   
 2015.11.27  <呼吸法>
   
<習慣にしたい呼吸法>
 生きるうえに呼吸が不可欠なことは、改めて云うまでも
ありませんが、意識した正しい呼吸法が心身の健康に
繋がるのは自然の理といえます。

 空手にも呼吸法の型「三戦」がありますが、空手に限らず
簡単にできる呼吸法は日々の生活に取り入れたいものです。
道場では丹田式呼吸法の一部を稽古の狭間に行っていますが、
難しく考える必要はありません。
 
<丹田腹式呼吸法とは?> 
 腹筋がある場所が丹田です。
丹田腹式呼吸法とは丹田を意識しながら腹式呼吸を行う
健康法で、腹筋を意識して呼吸をすることで、自律神経を
コントロールすることができます。呼吸法で心と体の健康を
保つのが丹田腹式呼吸法です。

・丹田式呼吸法
http://www.fyu.jp/dojo/tandenkokyu.htm

他に、
ネットで色んな呼吸法が紹介されています。

・よく息をすることは、よく生きること
http://www.health.ne.jp/library/5000/w5000395.html

・呼吸法
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=
UTF-8&p=%E5%91%BC%E5%90%B8%E6%B3%95

・スポーツで心を落ち着かせ、リラックスするための呼吸法
http://rkyudo-sports.com/category9/entry131.html
http://sports-mental.net/entry10.html

・筋力トレーニング・水泳・マラソンを実践する前に覚えたい
 効果的な呼吸法
http://www.sports-japan.com/breath/

・自律神経トレーニング
http://www.topathlete.co.jp/blog/2013/03/post-1-475857.html

 
 小生(筆者)は毎朝励行していることは、30~40回の
深い呼吸で寝ている間に肺に滞留(汚れた)した空気を
はき出し新鮮な空気に入れ替える・・それが一日の始まり
(目覚め)と意識づけています。
 
<ちなみに練習時の心得として>
〇人間の筋肉というのは、息を吸った時に縮み(固くなり)、
  息を吐いた時に、柔らかく(伸びる)なるようになって
  いますので、 「ストレッチ」を行う時は、必ず口から息を
  吐きながら行います(吸う時は鼻からでも、口からでも
  構いません).。

〇息を止めて行った場合よりも、息を吐き続けながらの方が
  良く前屈が出来ると思います。したがって、ストレッチの
  場合は、 息を吐きながら、1,2,3,4,5......と数をかぞえ、伸ばす
  部位ごとに、20~30秒ずつ、(伸ばしている筋肉部位の
 場所を意識しながら)反動をつけずに、ゆっくりと筋肉を
 伸ばすと効果があります。

〇ストレッチとは、英語の「Stretch」から来ており、”伸ばす”と
  いう 意味ですが、人間の筋肉は、伸びたり縮んだりして、
  体を動かすようになっており、ストレッチを続けてゆくと、
  この伸び縮み可動域の範囲が広がります。 この可動域の
  広がりが柔軟性と呼ばれるものであり、より良く筋肉を伸ばし、
  ストレッチの効果を高めるために、息を吐きながら行うことが
  重要だということです

〇スクワットは、逆の 呼吸法をしている人が多く見られますが、
  膝を曲げるときに吸い 伸ばすときに吐くが自然であり、
  ”伸ばす動作のときに息を吐く”というのが基本になります
 ので、逆の理論はありません。

 一般に空手の流派と同じでいろんな名を冠した呼吸法が
見られますが、まだ試していない方には、どんな種類で
あろうとも、続けることを前提として、自分にあった納得できる
呼吸法を実践することが一番かと敢えてお薦めする次第。

<参考:関係書籍・ネット検索>

 
 2015.10.17  <伝統空手・四代流派の特徴>
   
 四大流派(松濤館流、剛柔流、糸東流、和道流)の違いが
よく分からないとの声を聞く。判る範囲内でざっと特徴を掴んで
みよう。

 四代流派の師(始祖・流祖とも敬称される)は 松濤館
(船越義珍),剛柔流(宮城長順),糸東流(摩文仁賢和),和道流
(大塚博紀)ですが、沖縄から本土に来た1920~1930年に初めて
つけられた名前で、それまでは流派名はなかったのです。

 それ以前の沖縄では首里手、那覇手、泊手の大きく三系統に
分けることが出来るが、那覇手を受け継いだ剛柔流、首里手を
受け継いだ松涛館、同じ首里手を元に本土の神道揚心流柔術を
より使えるものにしたものが和道流、そして首里手と那覇手の
両方をミックスしないで全てを取り入れた糸東流と言う事になります。

<形(型)」からみると>
〇剛柔
  剛柔流の形は接近戦を表現しているため、関節の動きを
 利用した曲線的な動きが多いのが最大の特徴です。重厚感と
 豪快さに溢れる剛柔流の形は、基礎体力や足腰の強さがより
 必要とされます。また呼吸法も大きな要素となってきます。
 四股立ちで重厚さ、猫足立ちで軽妙さなどを表現しており、
 ある時はじれったいほどゆっくりさと、ある時は脱兎のごとく
 素早く動く剛柔流の形は、まさに剛と柔を併せ持つ形と言える
 でしょう。
○松濤館
  松濤館の形は遠い間合いから一気に攻める直線的で
 ダイナミックな動きが特徴です。攻撃技や受け技など技の
 ひとつひとつの動作が大きく、また前屈立ち、後屈立ち、
 騎馬立ちといった立ち方も歩幅が大きく、移動する距離も
 長いものとなっています。全体的に腰を低く落とすことを
 要求されるため、足腰の強さや早いスピードが求められます。
○和道
  和道流は日本の古流柔術なども取り入れているため
 「流す」「乗る」などの特徴があります。相手の攻撃に対して
 逆らうことなく、体のさばきによって流して攻撃に転じたり、
 また同時に相手の突きに乗りながら離れずに攻撃します。
 力で対応せずに体でさばき、相手の力を利用して攻撃する
 ため、無駄な動作や無駄な力を使わず、スピード感のある
 ところも特徴的です。
○糸東
  糸東流の流れには突き技や蹴り技だけでなく、投げや
 逆技といった技術がふんだんに盛り込まれています。形の
 種類の最も多い流派であり、基本形でもねこ足立ちや
 手刀受けなどが多く出てきます。素早い動きや腰の切れ
 などが特徴的な形です。

<各流派の代表的な形の特徴>
○剛柔流 セーパイ
  セーパイは逆技、投げ技など、接近戦での護身術として
 非常に効果的な技が多く含まれた形ですy。特に巧妙な円の
 動きが特徴で、攻防の技が一連の動作の中で流れるように
 構成され、その完成度の高さには驚かされます。
 緩急の動作をリズミカルにすることが求められる、比較的
 高度な形といえるでしょう。
  剛柔流の特徴である重厚感を感じさせる動作を表現する
 ために、肉づきがよく体型的にガッシリした競技者に適して
 います。
○松濤館流 ジオン
  ジオンはおだやかな動きの中に緩急のある動きが含まれた
 形です。転進、転回、寄り足などを練習し習得するのに適して
 います。
  練習に際しては特に難しい技はありませんが、基本的な形の
 中にあるさまざまな立ち方や技が多く含まれています。正確さ、
 緩急のリズム、方向転換などの基礎的動き身につけるための
 基本技を重んじた形でもあります。
  松濤館流の特徴であるダイナミックな形で、柔軟性と筋力の
 ある選手に向いています。
○和道流 チントウ
  チントウは軽やかでスピードのある形です。立ち方の種類も
 多く、その変化を通じて体の使い方をマスターするのによい形
 です。特に「緩急」「力の強弱」「重心の安定」を養うのに適した
 形といえるでしょう。
  和道流は柔術の影響を強く受けているため、最小限の動きで
 最大級効果をねらっており、動きもコンパクトでスキがない洗練
 された形となっています。ですから力強く重厚感のある選手
 よりも、スリムで切れのある競技者に向いています。
○糸東流 バッサイ(大)
  バッサイ(大)は、多種多様な基本技が集約されています。
 攻防の技の動作の切り替えが多く、軽妙な動きの中に技の
 切り替えし、強弱、敏速な極めなど、体幹の操作法を養成する
 ことが求められる形です。
  糸東流の特徴である技の多彩さと、合理的な体の操作方法を
 習得し、バランスと筋力、柔軟性を高める猫足立ちが多く含まれ
 ます。この形は、それぞれの項目すべてに、高い能力を持つ
 競技者に向いています。
 
よって、
 那覇手の剛柔流と首里手を使ったほかの3流派の違いは
はっきりでており、剛柔流と糸東流の「半分」がよく似ている
ものと見ることが出来、和道流が時として和道流柔術拳法と
自称するのは柔術を取り入れていることが所以です。
(参考)和同流 http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%92%8C%E9%81%
93%E6%B5%81 

ちなみに『寸止め』に関しては
 東大空手部や韓武館が中心になって「防具空手」が研究
されたが、理想的ではなく、そのため拓殖大学空手部などが
中心になって考えられたのが「寸止めルール」です。伝統空手の
統合組織として誕生した全空連においても、寸止めルールは
正式採用され、競技空手は完成したとされています。

(参考・引用:「空手道四代流派基本形・宇佐美里香著」
        「空手・國分利人著」「ネット検索」他)
 
   
  2015.9.15  <肩こり>
   
 成人の悩みの種「肩こり」。小生も20代から30代の間は
肩こりに苦しんだが、空手稽古にストレッチを取り入れてからは
久しく苦しむほどの肩こりとは無縁になっていたが・・

 朗報。9月9日の『ためしてガッテン』で原因・対処法が
放映された。「肩こり」に関しては番組としては7回目だが、
初めて原因が明らかになったようだ。
 今まで「筋肉」が固くなることが原因とされてきたが、
実際は「筋膜」のシワが原因とのこと。「筋膜」とは筋肉を
おおっている(包んでいる)膜。番組では鶏肉の筋膜を連想
すれば理解できるとし、画期的な発見(究明)と断じている。
成程、原因が判れば対処ができる。

<筋肉をほぐす運動と違って、筋膜のシワを伸ばす運動>
NHKためしてガッテンから(下掲)
 
(引用開始)
『筋膜のシワ』の伸ばし方
 以下の4種類の体操を、1日3セット行って下さい。
 姿勢をキープする時間は、最初20秒からはじめ、慣れてきたら
 徐々に延ばし(最大 90秒)て下さい。
 【※重要】痛いのを我慢してやっては逆効果です。決して無理に
 伸ばしたりせず、動作はゆっくりと。 気持ちの良い範囲で
 伸ばすのが重要です。
 また、転倒などには十分注意をし、不安のある方は行わないで
 下さい。

○斜め腕伸ばし 筋膜リリース
 1.右腕を斜め後方に伸ばす。指先が床にもぐりこむイメージで
 2.あごを引き、首を左にゆっくり倒す。この時右肩が上がらない
  ように
  左手で押さえる
 3.その状態から左耳を前に出すように首を回す。
  【この状態でキープ(20秒~90秒)】
 4.その状態から今度は首を反対に回し、鼻を左肩に近づけて
  いく 【この状態でキープ (20秒~90秒)】
 5.反対の腕も同じように(左右対称にして)

○平泳ぎ風 筋膜リリース
 1.両腕を前に伸ばす。背中を丸めず肩甲骨だけを押し出す
  イメージで。【この状態で キープ(20秒~90秒)】
 2.肘を高さをキープしたまま、両腕を開くように後ろに引く。
  【この状態でキープ(20秒~90秒)】
 3.肩甲骨をおこすイメージで両腕を上にあげる。
  【この状態でキープ(20秒~90秒)】

○S字 筋膜リリース
 1.右手を頭の後ろ、左手を背中の後ろにまわし、肘を90度に
  曲げる
 2.そこから腕を反時計回りに回す。【この状態でキープ
  (20秒~90秒)】
 3.そこから右足を前に出しクロスさせ、体を左に倒す
  【この状態でキープ(20秒~90秒)】
 4.左右を反対にして同じように

○バレリーナ風 筋膜リリース
 1.右手の平を自分に向け、左手の平を後ろに向け、右足
  を一歩前に出す
 2.そこから右手を天井に、左手を床に向けて伸ばしていき、
  さらに体を軽く左にひねる【この状態でキープ(20秒~90秒)】
 3.左右を反対にして同じよう
 (引用止め)

 なんのことはない、稽古時にやっているストレッチに近い。
日常的にやれば肩こりはほぼ解消されることは実証済みと
言っていい。 あとは実践あるのみ。



 
 2015.8.7   <生涯スポーツ>
    
 バイオリニストの五嶋龍(弊HPの「参考資料」の掲載記事参照)
は五嶋みどりの弟。アメリカ在住でハーバード大卒、投資会社
経営はともかく、なんと空手三段で「空手は生活の一部みたいな
もので、無意識下で、音楽とつながっている点は多い」とする。

 生涯スポーツをと言われて久しい。文科省の推進する生涯
スポーツ(Lifelong Sport)とは、その生涯を通じて、健康の
保持・増進やレクリエーションを目的に「だれもが、いつでも、
どこでも気軽に参加できる」スポーツをいうようだが、極めて
シンプルで健康増進運動につきる。

 幾多のスポーツがあるが、
 
 我田引水・・あえて言わせてもらえれば、軽く参加できる
類のスポーツでは(必要不可欠で大事なことだが)ただの
健康志向にすぎず、味気もなくわさびも効いておらず、充足・
充実感も得づらいし、ややもすれば不完全燃焼を起こしやすい。
おこがましくも人生の伴侶となる「生涯・・・」とまでは言い難い。
 比べるべくもないが我らが空手・武道はひと味違う世界だと
述べても言い過ぎではないのではなかろうか。

 少なくとも武道には精神面の強化、鍛錬というスパイスがあり、
東洋的伝統という隠し味がある
 空手に限らず武道の稽古には多少とも苦しさ・厳しさが伴う
ものだが、それを従容として受け止め生活の一部と化すのが
武道であり、空手でもある。
 精神の満漢全席。それは一路 『生涯空手』を目指す者が
味わえる愉悦でもある。
 
 五嶋龍の記事を読んで今一度「不易流行」(芭蕉)
                         に思いを馳せる。




   
 2015.7.17  <空手効果 西東京・都立昭和高校野球部>
   
 以前この「雑感」の最初の稿で<背泳古賀選手の練習>に
空手の形「ナイファンチ」を取り入れていることを紹介(2010.11.17)
したが、空手のスパイスは野球にも効果があるようだ。
読売新聞記事を転載する。

『空手効果 打撃が急成長』佐々木広大主将(3年)
 左打者なら「正拳」は左手の、「裏拳」は右手の強化に
つながる。股関節の動きを意識することで、体重移動が
スムーズに。打撃力の向上のため、チームでは空手の練習を
取り入れているが、その一番の成長株として中軸に名を連ねる。
 中学時代はリトルシニアの控え選手だった。しかし、高校に
入り、空手練習の効果で「スイングスピードが速くなり、安定した」
という打撃が急成長。昨年12月には、都選抜メンバーに選ばれ、
海外のチームとも対戦した。
 そこで同じリトルシニアで4番打者だった早実の加藤雅樹主将
(3年)と再会。「自分の成長を実感したが、甲子園を目指す選手
の意識の高さを感じた」。森勇二監督(49)は「都選抜に入って
から、主将として目の色が変わった」と振り返る。
 この日は、5月の練習試合で引き分けた桐朋に、打線が爆発
してコールド勝ち。1安打にとどまった3番は、「次は全打席
打って、チームにもっと勢いをつけたい」と、活躍を誓った。
(読売新聞2015.7.16)

   
 2015.6.9  <ちょっと道草・ご近所>
   
 「コボちゃん」の銅像が、神楽坂6丁目の早稲田通り沿いの
歩道に建ちます。読売新聞の四コマ漫画の主人公。作者の
植田まさしさんも近辺に35年以上在住。神楽坂商店街
振興組合が都と区の補助を得て制作。除幕式は8月の予定。



 ちなみに四コマ漫画といえば「サザエさん」。銅像は桜新町駅前
にあるが、



ずっと不思議に思っていた『サザエさん』の年齢は?

 昭和35年当時、一般的な企業の定年は55歳で、平均寿命は
男性が65歳、女性でようやく70歳に達したところ。30代は
立派な中年。40代はそろそろ初老、50代になれば少し老け
込んだ人なら見た目は老人の範疇に入る。

 漫画『サザエさん』の登場人物の年齢設定が当時を反映して
いる。主人公のサザエさんは27歳で、息子タラちゃんを生んだ
のは24歳のときらしい。夫のマスオさんは32歳、いとこの
ノリスケさんは26歳、ノリスケさんの妻・鯛子さんは22歳。
お父さんの波平はなんと54歳。今やとんでもない長生きの
時代に入ったようだ。
(参考文献「日本人はなぜ若返ったのか?」)

 そういえば『サザエさん』と共に長谷川町子を代表する作品の
一つである「意地悪ばあさん」は?


 アメリカの『意地悪じいさん』(著者・ボブ・バトル)に触発されて
誕生。単行本の初版はサザエさんのそれよりも発行部数が多く、
読者の側もまた、ヒューマニズムに飽いた人が多かったの
だろうと、作者は『サザエさんうちあけ話』で述べている。
一世を風靡した青島のテレビドラマは「あれは青島幸男による
青島ばあさんです」とまた別のものだと作者は批判的だったという。

 今や銅像は偉人のものではなく、漫画や妖怪の
                        登場人物の世界だ。

   
 2015.5.5  <武道家の身長>
   
 姿三四郎のモデルとなった講道館四天王のひとり、西郷四郎は
五尺一寸(約153cm)、体重は十四貫(約53kg)。
柔術を統一し、空手にも扉を開いた講道館館長の嘉納治五郎は158cm.
「理論の嘉納、実践の三船」といわれた空気投げの三船久蔵は
身長159cm(153cm,155cmともいわれる)、体重55kg。
グレイシー柔術の基礎をつくった前田光世は164cm.
「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」木村政彦がようやく
170cm,75kg~85kg。 ヘーシングを育てた道上伯は173cm.

 大山倍達。公称180cmといわれるが、実際は173cm.空手の
実力は本物であるが、漫画「空手バカ一代」で誇張・脚色が多。
梶原一騎の弟で漫画原作者であり小説家でもある空手家
真樹 日佐夫が話を作ったことを関係者に吐露している。
ちなみに極真会総本部の第三代師範代であったころ、
道場生だった麻原彰晃によく稽古をつけていたと今は亡き
本人の弁。

 力道山、176cm.体重116kg. プロレス時代の公称身長は180cm.
以来、プロレスラーの公称身長はプラス4cm.がふつうになった。
 木村と対戦しその寝技と体重に翻弄されたエリオ・グレイシーは
170cm、55kg。
 
 空手の中興の祖・船越義珍は関係者の話から150~160cm.
合気道の開祖・植芝盛平もそうであり武道家の水準というより
当時の男性の平均身長ともいえる。

 空手界の華・宇佐美里香。東京都出身。帝京高等学校、
国士舘大学を経て鳥取県で勤務。身長は159cm。段位は三段。
種目は形。糸東流といわれる。得意形はトマリバッサイ、
コウソウクン小。2012年の世界空手道選手権大会優勝を花道と
して、2013年3月5日に現役引退を表明。国士舘大学大学院へ
進学、今後は指導者へ歩み出すこととしている。
 
<関係各書、ネット参照>

   
 2015.4.17  <番外編>
   
〇沖縄三大流派
  本州でこそ四大流派といいますが、沖縄では三大流派
(剛柔流、上地流、小林流)といわれます。以前、ネット検索から
沖縄四代流派(上地流・古武道・劉衛流・本部流)としましたが、
これは沖縄空手振興「宣伝」の立場からいわれた感があります)

〇首里手
  今日一般に、首里手は柔軟性重視、那覇手は筋骨重視が
特徴と言われている。泊手は 首里手とさほど変わらなかった
らしい。本部によれば、古来首里では「六分の力でもって習練し、
ひたすら敏活を旨とした」のに対して、那覇手は「十分の力を
傾注し、専ら、筋骨の発達に意を用ひた」としている。
  首里手の代表的な型(形)には、ナイファンチ、パッサイ
(抜塞:バッサイ)、ピンアン(平安)、クーサンクー(公相君)など
がある。
 首里手の流れを汲む空手の流派としては、松濤館流、
錬武会流、和道流、糸東流、本部流、小林流、松林流、
少林寺流、少林流などがある。

〇型と形
  以前(昔)は『型』でしたが、剣道(剣術)・柔道(柔術)の影響と
いうより参考にして『形』になったと思われます。全空連が主導。
ちなみに剣道の『型』は、易教の「形而上者謂之道 
                    形而下者謂之器」の言葉
の意味からきたものと理解されています。能書きは別とすれば、
今風が『形』、昔は『型』といえます。
 
  作家で空手塾(今野塾)主宰をする今野敏氏は「形」ではなく
「型」だと言い切り、「空手は本来、型を練習するものではなく、
型で練習するもの。型で体を練り、技を練っていく。重要なのは、
どう見えるからという『形』ではなく、どう動けば効率よく力を発揮
できるかだ」と言う。

〇稽古と練習
  武道と伝統芸能では稽古という。
「稽古する」と「練習する」というのでは、精神的な意味で
向き合い方が違う。「稽古」というと、見本を見て自分なりに
それを理解していく。一方、練習では、教える人がいて、
習う人に「こうですよ」と説明してあげる。 
 稽古はもともと中国の古典で使われていた言葉。

〇残心
 武芸で、一つの動作を終えたあとでも緊張を持続する心構え
をいう語。剣道で、打ち込んだあと相手の反撃に備える心の
構え。弓道で、矢を射たあとの反応を見きわめる心の構え。

   
 2015.3.27  <黒帯大統領>
   
 あの「命のビザ」の杉原千畝領事の公使館がリトアニア
であったが、今その国の大統領は女性ベテラン政治家(独身)
で「鉄の女」と呼ばれる空手「黒帯大統領」。
当ホームページの<参考資料・新聞記事>で2009年に紹介
したが、昨年圧倒的人気で再選される。「欧州の頼れる女性
政治家」としてNewsweek(2015/03/31)の記事を転載します。
操る5か国語はリトアニア語・英語・ロシア語・ポーランド語・
フランス語。

ダリア・グリバウスカイテ(リトアニア大統領)
 彼女ほどの「肝っ玉」でロシアのウラジミール・プーチン大統領に
対抗できるのは、男性リーダーでもそうはいない。
 空手は黒帯で5か国語を操る59歳のグリバウスカイテは昨年、
ロシアを「テロ国家」と非難し、プーチンをヒトラーとスターリンに
たとえた。人口わずか300万でロシアと国境を接し、対ロシア
貿易がほとんどを占める小国にしては勇敢すぎる発言だ。
 それでも国内の評判は高く、昨年、58%の得票を集めて
大統領に再選された。最近はエネルギーのロシア依存を改善
すべく、液化天然ガス(LNG)基地建設を指揮。リトアニア軍
増強案も再提案した。
 



   
 2015.3.14  <形(型)演武上の注意点>
   1.礼
  型は礼に始まり礼に終わる。型の始めと終わりの礼は、
  演武者にとっては心の「形」。寸分の隙もない礼こそ、
  武道を志す必須条件。
2.姿勢
  自然体で正しい姿勢がとれているか。種々の攻防技を
  演じていても、正座をしている時と同じ心地でいるかどうか
  (上虚下実)。
3。着眼
  正しい目付けができているか。目は心の窓として相手の
  目を見ていると技を起こす心を感知できる。自分と同じ
  体格の相手と闘っているという想定で、相手の目の高さを
  見る。次の動作に移るときも、その動作と調和して目標を
  正しく認識して行うことが大切。
4.攻防技
  個々の技が正確か、切れがあるか、無駄な力みがなく、
  身体が緩んで、膨らんで、浩然の気が生じているか。
  一点の爆発という感覚が理解できているかどうか。
5.呼吸
  動作と呼吸がうまく調和しているか。
6.各動作の意味をよく理解しているか。型の特徴や動作の
  意味を正しく理解し、その裏技(応用動作)まで研究する
  必要があり。
7.間(ま)
  所期のリズムを生むための休拍や、技と技の間隙。
  転じて全体のリズム感が大切。
8.演武線
  演武線を正確に転進、後退する。型には移動方向を定めた
  八方の演武線がある。型の始まる位置と終わりの位置は、
  特殊な型以外はほぼ同一点に戻る。型の演武中、立ち方の
  位置や歩幅が不正確だと元の位置に戻らなくなるので注意。
9.緩急
  型演武全体を落として一本調子にならないように、また
  ひとつの技においても緩急を表現できるようにすることが
  大事。
10. 重心
  重心を安定させ滑らかに流れるように移動が行えるように
  する。
11. 残心
  古来より日本武道は残心を特に重視。型の内容が立派に
  できても、終わりの残心がなければ無為に終わる。
                   
  (出典未詳 一部修正)
 
   
 2015.1.25   <沖縄空手の今>
 
 寡聞にして知らなかった沖縄空手の現状が垣間見えた。
沖縄出身で38才男性と知り合い2日続けて空手トーク。沖縄で
大学空手を4年。卒後東京へ。現在は子供の空手指導と殺陣の
インストラクターを業とする体型のスマートなファイターと資料を
拡げて談義を飽くまで続けた。書籍・ネット検索・伝聞で得た
知識に知友の体験、郷土知識を照らし合わせた結果を
まとめてみた。

○沖縄4大流派
 ネットで見ると、
 ・上地(うえち)流
 ・古武道、
 ・劉衛(りゅうえい)流
 ・本部(もとぶ)流
 とされているが、20年前は上地流と剛柔流が全盛。時代に
 よって4大流派の対象が変わるようだ。今も沖縄といえば
 剛柔流といわれるが、全空連の4大流派に入っているので
 便宜的に沖縄4大流派からはずされているのかと推測。

○大学空手
 沖縄に大学が短大を含めて7校あるが、本格的な空手部が
 あるのは4校。強豪校の沖縄国際大学と沖縄大学(両校とも
 空手推薦入学制度あり)、それに20年前に開校した名桜大学
 と名門の琉球大学。すべて全空連に加盟しており、そのルール
 に則り活動、運営されている。

○空手の必修化
 多くの高校が必修化。沖縄伝統空手道振興会が中学体育
 武道必修化検討委員会を設けて中学での必修化も推進中。 

○沖縄県の無形文化財
 「沖縄の空手・古武道」は1997年に県指定無形文化財に
 指定され、2015年の認定により保持者数は14人になった。
 ちなみに沖縄伝統空手道振興会の目的に 
 「本会は、沖縄伝統空手道及び古武道の保存・継承及び世界
 への普及振興を図る と共に、空手道及び古武道発祥の地・
 沖縄が世界の空手の聖地となることをめざす」とある。

○「空手の日」 10月25日
 平成17年3月、沖縄県議会において、10月25日を「空手の日」と
 することが決議された。これは「空手」の表記が公式決定された
 のが昭和11年の10月25日だったことにちなんだもの。
 参考に
 2014/11/06の記念演武祭
 https://www.youtube.com/watch?v=evfCE0Gc5vo

○系統
 ・首里手系
 ・那覇手系
 ・泊手系
 の3系統あるが、今の空手を学ぶ者は系統の違いの意識は
 なく、流派の違いだけはしっかり認識されている。

○流派
 本土の流派は100程度と言われているが、沖縄も4大流派を
 筆頭に100前後ではないかと推測される。俗にいう町道場が
 主体の各流派だが、海外に支部道場も多く、またそこからの
 自主独立・派生もあり、振興会も把握しきれていないのが現状。

○対外試合
 自流派では独自の大会(試合会)を持つが、他流派とは全空連
 ルールの大会に参加が多くなってきた。まったく全空連に
 関与せず、独自の路線をすすむ流派もあり。ただ学校関係の
 空手は本土と同じく全空連加盟空手が主流。文科省の
 管轄ゆえか。
 以前はまったく違う流派との試合(組手)は成り立たなかったが
 今は違う。

○型(形)の名
 漢字による表記はすべて、空手が本土に伝来して以降の
 当て字や翻訳である。
 摩文仁賢和は「内歩進」とし、船越義珍は「騎馬立ち」後に
 「鉄騎」としたごとくである。他に「内畔戦」、「内範置」
 (玄制流系)などの表記もある。ちなみにナイファンチと
 ナイハンチの差は、泊地方の発音の差ではないかとされる。

○ガマクとチンクチ
 基本的に沖縄の方言。流派、指導者によっても多少意味合い
 が違ってきますがそもそもが空手だけの用語でなく、むしろ
 琉球舞踊のほうで使われているようで、チンクチは背中まわり、
 ガマクは腰まわり、そこの筋肉の上手い使い方の意で、、
 さらにムチミは粘りのある動き、鞭のようにしなるとも解釈
 されています。

○念のため、空手とは
 1929年(昭和4年)に慶應義塾大学唐手研究会(師範・
 船越義珍)が般若心経の空の概念を参考にしてこれを用い、
 その後この表記が東京を中心に広まった

 遅きに失した感もあるが、今や沖縄では『沖縄伝統空手・
古武道』を郷土(県)の伝統文化・資源・資産と認識し、奨励・育成
に努めていることにエールを送ります。

   
 2014.12.19 <続・地名の由来>
   
 書店で偶然みかけた新刊「江戸・東京 間違いだらけの地名の
由来」。蔓延跋扈する”バスガイド地名論”「知ったかぶり」の
臆説をすべて排除した本格版。
そこに『江戸以来の懐かしい町名多数がそっくり残された
牛込界隈(新宿区)』とある。ご近所さまの町名の由来を
知ることも一興。下掲引用抜粋。

・箪笥町(たんすちょう) 
  具足奉行および弓矢槍奉行の組同心拝領屋敷があった
 地で、「箪笥」とはそれらの武具の総称。拝領地のうち表通り
 (現・大久保通り)の一画がやがて町屋となった。正徳三年
 (1713)、正式に牛込御箪笥町として町立てし、町奉行支配に
 なる。
・袋町(ふくろちょう)
  肴(さかな)町(現・神楽坂五・六丁目と岩戸町の一部)の
 横丁の奥で、元は肴町のうち。「袋小路の奥」を表現した
 町名という。成立時期は不明。
・岩戸町(いわとちょう)
  神楽坂の坂上の肴町続きの一帯。神話の「岩戸神楽」から
 神楽(坂)の上は岩戸という語呂合わせによる町名。
 江戸前期には留守居方屋敷、一度上地(収公)され日除地と
 なる。寛政10年(1798),前年の火災で焼けた深川六間堀の
 代地。江戸期には1~3丁目があり、明治5年、肴町の一部を
 加え牛込岩戸町となる。
・二十騎町(にじゅっきちょう)
  元は曹洞宗本山天竜寺の寺地。天和の火災後に収公、
 御手先組与力(10騎一組×二組)の組屋敷となる。江戸期には
 俗称、明治二年に正式町名になる。
・払方町(はらいかたちょう)
  天和の火災後、小石川元吉祥寺の払方御納戸同心拝領
 町屋敷の代地。のち町屋が増加、元禄9年(1696)町奉行支配。
 明治5年、牛込払方町となる。
・納戸町(なんどちょう)
  天和の火災後に御納戸同心の拝領町屋敷となる。町屋が
 増え、払方町と同時に「御納戸町」として町立て。明治二年、
 牛込納戸町。
・細工町(さいくちょう)
  天和の火災後、御細工方同心の拝領町屋敷となり、
 牛込御細工町と称した。明治五年、周辺武家地などを合わせ
 牛込細工町となる。
 
<牛込の各町名はそこに住んでいた職人からつけられた
 ものでなく、幕府の職制に由来する>

 ちなみに肝心の
・牛込は
  南北朝期の「足利氏文書」に見える古い地名で、
 江戸氏一族の牛込氏の本貫地であった。この地名については
 江戸後期の 『新編武蔵国風土記稿』以来「牛込の地」とする
 説が定説化しているが、地形用語コミ・ゴミの転と考えたほうが
 合理的である。
  戦国期、牛込郷は現・新宿区北東部の汎称で、
 大久保・戸塚・高田・早稲田・中里・和田・戸山の各村を指して
 「牛込七ヶ村」と称した。
  江戸期、豊島郡牛込村の東部は早くから大名屋敷・
 旗本屋敷の武家地や寺社地が配置され、寺社の門前町などの
 町場が多かった。明治11年の新郡区編成で東京府牛込区と
 なる。
<注:極め付けの通説の嘘
     「江戸のゴミ坂はゴミ捨て場ではない」
    牛込などの「~込」地名について。塵埃を意味するゴミという
   和語は、湧泉・湖沼のコミと同語源の言葉。小学館「日本
   国語大辞典」は 「ごみ(浸)の次々項の「ごみ(塵・芥)」の
   項の第一義に、「水の中に浮遊したり水の底に沈殿したり
   している泥」をあげる」 丘の麓に湧く泉では、絶えず噴出
   する水の周囲に円形の泥の壁ができる。地中から伏流水と
   ともに湧き出るこの泥が、本来の意味のゴミである。
    江戸時代、江戸・東京市中には少なくとも五カ所のゴミ
   (芥・五味)坂があった。江戸は台地とそれを刻む谷から
   なる街である。ゴミ坂はいずれも、谷の奥の浸食最前線に
   位置している。台地の上から急に下った浸食最前線には
   必ず泉が湧き、大小問わず池塘ができる。だから、
   コミ(浸)坂→ゴミ坂なのである>
・早稲田は
 <極めつき通説の嘘、早稲田は
    「早生稲を植える田」ではない>
  新宿区早稲田は江戸初期には牛込村のうちの小村だったが、
 南部が牛込早稲田町となり、残部(現・早稲田鶴巻町付近)が
 早稲田村として残された。この地名はもっぱら「早生(わせ)の
 稲をつくる由」と解釈されてきたが、はたしてそうだろうか。 
 「早稲田」地名はほかに新潟県・長野県に一か所あるが、
 「早稲」・ 「早稲川」・「早稲原」・「早稲谷」という地名が
 福島県・宮城県に計五カ所存在する。「早稲田」だけなら
 ともかく「~川」・「~原」・「~谷}などの地形名語尾がついた
 地名を「早生種の稲」では説明できまい。
  ワセ(早稲)という語の語源は、「早い」ことを表すハセ(馳)
 という。ハセ地名なら全国に多数あり。「長谷」の字を当てた
 例が多い。
  この「長谷」地名もたいがい、奈良県桜井市やそれを勧請した
 鎌倉市の長谷観音と結びつけて説明されることが多い。
  だが実は、観音堂もなく奈良県桜井市や鎌倉の長谷とは縁も
 ゆかりもない地がほとんどである。
  ハセは、ある種の地形地名ではないかと、考える。
  奈良県の長谷も含めハセ地名の多くは、河谷が二俣に
 分岐する地という点で共通する。つまり、分岐した二つの
 河流に挟まれた地がハセではないか。
  もう日用衣料としてはほとんど使われなくなったが、
 足袋を袋状の穴に差し込んで止める金属製部品をコハゼと
 いう。私たちが子供のころ、稲刈りをしえ束ねた稲束を、
 物干し竿風のハサ(ハセ)に架ける作業を手伝わされた。
  物を挟んで切断する器具をハサミ(鋏)といい、ある物体に
 別の物体を差し込むのをハサム(挿)という。
  古い地図を見れば一目瞭然だが、新宿区早稲田付近も東流
 する神田川本流に蟹川の渓流が南西から北東方向に斜めに
 合流する地点である。

 最後に神楽坂は?
http://baba72885.exblog.jp/10361620/

   
 2014.10.25   <地名の由来>
 
 道場の所在する山吹町は神楽坂に隣接し、通うのに神楽坂駅
(東西線)を利用する道場生も多いがなぜ地名が山吹なのか、
もしやと思い調べてみた。

<山吹伝説>
 太田道灌が父を尋ねて越生の地に来た。突然のにわか雨に
遭い農家で蓑を借りようと立ち寄った。その時、娘が出てきて
一輪の山吹の花を差し出した。道灌は、蓑を借りようとしたのに
花を出され内心腹立たしかった。後でこの話を家臣にしたところ、
それは後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の
一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、
山間(やまあい)の茅葺きの家であり貧しく蓑(実の)ひとつ
持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。
古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後道灌は歌道に励み、
歌人としても名高くなったという。
 豊島区高田の神田川に架かる面影橋の近くにも山吹の里の碑が
あり、1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があり、
伝説の地に比定されている。(ネット検索)

ついで
<新宿>
 江戸に幕府が開かれた慶長8年(1603年)の翌年に、日本橋を
起点として五街道が定められました。東海道、中山道、
日光街道、奥州街道、甲州街道で、各街道にはそれぞれ
一定数の宿が置かれ、宿は伝馬を提供する義務が課せられて
いました。
 甲州街道は日本橋から甲府に至る幹線で、甲府から中山道の
下諏訪まで連絡していました。甲州街道は、日本橋から最初の
宿場高井戸までの距離が長く、旅人が難儀していました。そこで、
名主・高松喜六らの願いにより、その中間にあたる地に宿場の
設置が認められました。この宿場は、内藤氏が幕府に返上した
屋敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と
呼ばれ、新宿の地名の起こりとなりました。(新宿区役所広報)

   
 2014.9.15  <武道(剣道・柔道・空手)の人口>
   
<剣道>
剣道は体力・体格・年齢差がそれほどハンディにならない稀有な
スポーツで、最近では「昔やっていた剣道を今になって再開する」
というリバイバル剣道が流行っている。
初めての全国区規模調査(平成19年)通称「剣道人口国勢調査」
によると

①活動中の剣道人総数は47.7万名、そのうち有段者は29万名
 であり、 段位取得者の約2割。
②うちわけは一般社会人40%、中学生以下が45%、このうち
 半数が小学生以下である。
③男女構成では女性が23%と4分の1を占めている。
④組織別には学校剣道部28%警察関係14%、一般道場・
 スポーツ少年団が58%である。
⑤総剣道人口としては、今回把握した無段者18.3万名を
 登録人員148万名に加えると、166万名となります。。

活動している剣道人口48万名であり、登録済みの有段者の
 20%がしか活動していないことは昭和世代にとっては寂しい
 感じがします。

では世界では
第15回世界剣道選手権が2012年にイタリアで開かれたが、
スポーツ新聞のニュースにもならず、残念ながらマイナー競技に
見られている。ちなみに主要メンバー国は「日本」「韓国」
「アメリカ」「ブラジル」で、世界全国の剣道人口は日本を含めて
260万~280万といわれているが、そのうちライバル韓国が
60万人。 まだまだ発展の余地があるが、世界と日本の
「剣道観」の違いが発展を妨げているようだ。


<柔道>
日本の柔道人口は衰退気味で20万、フランスは60万人と
言われて久しいが、柔道がJUDOとして世界に認知されて
いるのを素直に喜ぶべきか。
『日本』の現状は
https://www.syaanken.or.jp/wp-content/uploads/2012/05/
sh1234P014-021.pdf#search='%E6%9F%94%E9%81%93%E3%81%
AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3'

『世界の柔道』
フランス人が柔道を習うのは、「集中力を付けたい」「礼儀正しく
なりたい」といった理由がほとんどで、実際のところ大会に出場
して勝ち負けを決めることにはあまり興味がないようです・・・
「パリでは、柔道をやって強くなろうという人はとくに少ない
ですね。どちらかというと、バリエーションに富んだ柔術を学んで
楽しみたいとか、護身術を学びたいという人がほとんどです」
とのこと。国や都市によって、様々なとらえ方や楽しみ方が
あるようです
http://www.judo-ch.jp/world/fr/

<空手>
現在、国内の空手人口は約300万人、世界では 165カ国が
WKFに加盟しており、4,000万人の愛好者、競技者が日夜稽古に
励んでいます。
http://www.ssf.or.jp/library/dictionary/dic2_karatedo.html

空手道は伝統派だけで国内100万人ともいわれ、 全日本空手道
連盟(WKF)の会員登録では30~40万人。そちらには登録せず、
空手協会(松濤館流)50万人。剛柔会、糸東会、和道会10万人
ずつくらいといったふうに散らばっており、一人で流派と全空連
両方に登録している場合もあり全国的な正式な調査はなく、
推定になります。

『アメリカの空手』
空手キッズのお国は
http://www.sportsclick.jp/combat/04/

ちなみに気になるのはテコンドー
『空手をしのぐ?世界のテコンドー人口 』
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/korea3.htm

各界、各流派で手前味噌になりがちだが、以上が大局と思量。
間違いがあればご容赦願います。

   
 2014.08.11  <社会人の空手>
 
 社会人になって初めて空手を習う人の動機はさまざまだが、
結構長続きする人が多いのには感心する。それだけ
モチベーションが高いのだろう。判っていることだが続けるの
には必要条件がある。それは
・便利なアクセス
 道場が勤務先か住居に近い。もしくは道場が家と会社の
 間にあり途中下車が容易に出来ること。利便性がないと
 続かない。
・週1~2回の練習
 通常、仕事をしながらの稽古なので残業もあり、出席できる
 日数と時間帯が限られるのが社会人。学生のように
 週3回~4回以上などは望むべくもなく、、実際には
 週1~2回が一番多い平均値だが、少なくとも週1回は
 習慣的に通うことが課題になる。週1でもしっかり継続できれば
 間違いなくやった稽古が身につく。
・運動経験者
 学校時代(小中高)を通じて何らかの運動経験(半年以上
 継続した)があること。
 習慣的に運動した経験がまったくなく社会人になってから
 初めてでは、残念ながら体も気持ちもついてゆかない。

 あとは、なんでもありのこの世の中、さぼり心との闘い。最初は
理由をつけて休みたくなるが、初心忘るべからずで休まぬ努力
が継続につながり、その継続が鍛錬として結果を生む。

道場で稽古すること自体が克己心を育む
                     といっても過言ではない。

   
 2014.07.01  <稽古の内容とポイント>
   
 手紙や文章に起承転結があるようにどんなスポーツの
練習にも順序があるが、当道場の空手の稽古の場合は

  ー前半-
  準備体操 
    ↓
  基 本 
    ↓
  筋トレ、ストレッチ 
    ↓
  基 本 
    ↓
  呼吸法

 
  ー小休止ー

  ー後半ー
  約束組手
    ↓
  組手/形(かた)
    ↓
  整理体操 

 約2時間の行程だが、
・準備体操で体を起こし、温め、ほぐし、動き安くする。
・基本の積み重ねに技は成り立つもので、基本は必ず
 一定量をこなす。
・筋トレ 弱い部分の強化、股関節の柔らかさを希求
(可動域を拡げる)
・約束組手 受けを中心とした一本組手から、転身を
 伴う連続技へ。
・自由組手 通常は力を抜いた組手(ケガを避ける
 やわらかい組手)
・形(かた) 多様な技を形から学習。組手をやらない
 練習生は形を主に。
・整理体操 ストレッチが主で筋肉をほぐし、疲れを
 残さない。

途中、きつければいつ休んでもいいのだが、道場生の
ほとんどが自主的に上限を高める意欲を持って稽古。
やっぱり空手が好きなんですね。

   
 2014.06.07  <空手を身につける>
   
 空手習得プロセスを判りやすく方程式に例えると
・公式 基本
・一次方程式 約束組手
・二次方程式 ゆっくりした組手
・三次方程式 自由組手
・微分積分  対外試合

並行して形(かた)は比較的覚えやすい形から、徐々に
難易度の高い形を練習し、分解して技に活かす。
<基本>
相手なしの
空(から)受け、空突き、運足(摺り足、転身)。
武道の共通項は基本の徹底。稽古の最初は基本から始まる
(勿論準備体操後だが)。肉体の若さ。身体能力の高さで
ある程度はカバーできるが(誤魔化せるが)、いずれは
伸び悩む。高段者ほど基本を大切にする。
<約束組手>
練習相手と相対して
攻撃する箇所を決めて(約束して)突き・蹴りを出し、
受け手が受けて突く・蹴るの反復練習で正確さとスピード
を体に覚えこますのだが、一本組手から連続技にだんだんと
難度を上げていく。
<ゆっくりした組手>
初めは上級者と
やわらかい組手とも云っているが、スピードを落とした
自由組手。 連続技・応用技を磨き、組手の勘を養う。
注意することは攻撃だけの練習ではなく、受けて突く。
まず転身と受ける練習から。
<自由組手>
ルールを理解して
基本・応用技をしっかり身につけ対戦。間合いとタイミング
にスピード。もちろん寸止め。鍛錬の成果が出る。
慣れることと、自分の得意技を磨く。
<対外試合>
地区大会や連盟の大会に出場して競う。級や段、性別、年代に
あわせたトーナメント・メニュー。白帯から体験として
出場するのも一興。 組手に限らず形(かた)の美を探求する
のもおすすめ。「井の中の蛙」というが、対外試合の経験の
ない者が正式な黒帯を締めることはまずない。
<ところで>
定理は・・基礎体力。基礎体力なくして武道(スポーツ)は
覚束ない。当道場では空手の稽古の中に筋トレ、ストレッチが
組み込まれている。
柔軟性は空手には必須で、稽古そのものが連動していると
いえる。

要は「守破離」(2012.5.21の雑感)の世界といえる。

   
 2014.05.05  <入門ア・ラ・カルト>
 
 空手に限らずスポーツでは必ずと言っていいほど”肩の力を
ぬけ”と云われるが、初めての体験の場で肩の力がぬけて
いる人はまずいない。経験者でも体験の最初は緊張感で肩に
力が入るものだ。だが、なんと体験(見学)の申込み前から
肩に力が入っている人が少なくない。空手=怖いという
イメージ(先入観)からだろうか。

道場を訪れる人を敢えてタイプ分けすると
・もじもじ型
・思い切り型
・確信型
・同好会志向
・誘われて
・再開型
・健康志向
・乗り換え型
・空想型
・勘違い型
事例の説明はなくともなんとなく想像がつくかと思うが・・。

ふつう経験者以外は一大決心?をして見学の申し込み。
当道場では見学ではなく軽く体験をしていただく方式なので、
余計緊張して肩が力が入るのであろうか。初めからできる
人はいない。だから習いを始めるのだが、この辺の考え方・
感じ方が微妙に稽古継続に影響する。故に入門時の最初に
伝える言葉は、

・入会後、1~2か月はまず慣れること(道場に)
・次に基本を覚える(理屈ぬきに)
・並行して形(かた)、応用を稽古(素直に一定量をこなす)
・そして考える(自分の得意技などを)

休まずに来れば2年間ぐらいである程度の結果は出るが、
よく言ったものでなんとかは3年。余裕をもって4年がひとつの
目安になるのではなかろうか。

入門(入会)の動機が奈辺にあろうとも、
入門するだけでうまくなったり、強くなるはずもない。
自分のモチベーションを高め、いかに継続稽古するかが、
要(かなめ)となる。 

気軽に申し込んで体験し、入門を決めたら気を楽にして
時間をかけて空手(道場)に慣れる。

すべからくは”継続は力”につきる。

   
 2014.04.07  <泊手ナイハンチ>
   
 古来の沖縄空手が最も色濃く残る泊手(とまりて)。
空手の原点とも言われるナイハンチ(ナイファンチ)
のビデオ「泊手ナイハンチ・山城美智」を入手した。
初段から三段まで・分解・その詳細。
その内容は
〇ナイハンチで身につく力とは?
・突きの威力
・ナイハンチ立ちの磐石さ
・相手の攻撃が通じにくい体
・不利な体勢からの威力
・少しの動作で破壊力を出す
〇ナイハンチ立ちと移動方法その詳細
 ポイント1 足を交差させる
 ポイント2 足の幅、膝の張り、重心の位置
 ポイント3 歩み足での移動で生まれる力
〇ナイハンチの挙動の詳細と注意点
・肩の支配を受けない腕の動かし方
・全身の一体化で受ける左右の受け
・腕の骨で体当たりをするナイハンチ最初の攻撃
・最初の受けで上段をカバーするには

 前紹介の「沖縄空手の真髄」を理解していると非常に
解りやすく共通項が多い。人間の最も強い立ち方
(ナイファンチ立ち)・重心の取り方(ガマク)・パーツ(手足)を
使うのではなく『体幹』を使う・何よりもスピード(先の先)。

 そこに流れるのは”倒すか倒されるか”現代のスポーツ空手
とはまったく別の生き物のような泊手。
映像で指導説明する山城氏は「命を守るための武術、
役割を果たし必要とされない時代が来たのだと思うように
なった・・」とも言う。
墓場まで持っていくつもりだったとイントロにナレーションが
流れるが、後半にはその真髄を理解して「良いところどりして
ください」との現代風コメント。

 ”温故知新”空手の世界にも言える言葉であるようだ。

   
2014.02.11 <形(かた・型)>

 沖縄空手の書物から得た知識の実技への応用の楽しみは
上級者の課題としておき、空手を学ぶ者としてまずは
形(かた・型)をしっかり覚えるのがセオリーと思量。
近代空手道の祖、師船越義珍が組手をさけ形(かた)を
推奨し教えたのが、平安(ピンアン)初段~五段、
バッサイダイにローハイ。さらに鉄騎(ナイファンチ)、
三戦(サンチン)。公相君(クーシャンクー)にセイエンチンが
加われば、異論はあると思うが伝統空手の形の主たる
部分を学んだことになるのではなかろうか。

 流派によって違いはあるが、伝統空手は源流沖縄空手。
高段者といえども形(かた)を10種以上身につけている人は
少ないと聞く。ちなみに当道場の藤谷師範は孫のいる年代
だがいまだ研鑽をつづけ、形(かた)のデパートと称される
努力家。なんと一隅を照らす得がたい存在ではないか。

2014.0.1.26 <沖縄空手・首里手>

 本来ならば元祖沖縄空手というべきか。
口伝・直伝の沖縄空手は流派・会派が多く指導者の尊称も多。
高祖 流祖 始祖 開祖 元祖 正祖 宗祖。 既存の書籍や
ネットを見ても目まぐるしく、断片的な知識の網羅や伝聞・紀聞の
類も少なからず見られる。
薩摩の示現流の思想「一撃必殺」の思想が入る首里手、半分
現地化した那覇手、ほぼ中国渡来のままの泊手、それにその
当時にチャイナタウンだった久米村の存在。
手(ティー)は古来沖縄の武術を指すが、ともあれ日本の空手の
源は沖縄。
今まで東京で学ぶ限りにおいては真の沖縄の伝統空手に接する
機会は皆無で、、何回か現地を訪れたところで表層しかわからず
限られた知識にとどまっていたが、ついに目から鱗の本がでた。
「沖縄空手の真髄」著者はユタ州ソルトレイクで道場を開いている
新垣清氏、出身は沖縄県。去年2013年6月に59歳にして上梓。
その十数年前に「沖縄武道 空手の極意」も出している。
現代の空手の流れは
(1)スポーツ化した空手
(2)近代になって移入された中国拳法の影響を受けた沖縄空手。
(3)武術として伝承された沖縄空手(首里手)。
の三つに大別されるが、必然、氏の書は首里手。

ーその前にー
 念のため前知識(理解の助け)としてウィキペディアの
「空手道」(下掲)を参考とする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%89%8B%E9%
81%93

<伝統派空手>
 狭義の伝統派空手(全空連空手、寸止め空手)一般には本土
空手を指す場合が多い。全空連に加盟し、空手道の競技化、
スポーツ化に力点をおいている。全空連が寸止めルールを採用
していることから、寸止め空手と呼ばれることも多い。競技空手、
スポーツ空手とも呼ばれる。本土空手は、剛柔流、松濤館流、
和道流、糸東流が規模の上から一般に四大流派と呼ばれ、
よく知られている。

<本土空手>
 本土空手は、大学空手を中心に発展してきた。それゆえ、より
若者向けに型や組手も沖縄より全体的に力強く、ダイナミックで、
見栄えがするように変化してきている。しかし、近年では生涯武道
という観点から、また古伝空手ブーム等の影響もあって、近代化
への反省も見られる。他に本土という土地柄、柔術など日本武術
との融合や影響が見られるのも特徴である。

<スポーツ空手として>
 近年では、勝負の判定を従来よりスポーツライクなものとした
ポイント制や、拳サポーターの色分け(青と赤。従来は両者が
白で、赤と白の区別は赤帯を用いていた)、細かなものでは
審判の人数や立ち位置など、ルールにかなりの見直しが施されて
いる。これらはオリンピック種目化を目指しての革新と見られる
が、スポーツ化したとき見た目にはさほど違いのないテコンドーが
既にオリンピック種目となっているため、実現は容易ではないと
考えられる。

<沖縄空手>
 沖縄に本拠をおく空手流派である。スポーツ化の傾向にある本土
空手と距離をおく意味で、「沖縄空手」が本来の伝統武道空手と
して用いられる場合も多い。本土の流派が主導する全空連が
指定形から沖縄の形を排除したことに反発して、沖縄は本土と
距離を置くようになった。しかし、沖縄県空手道連盟のように
全空連に加盟している組織もある。

 沖縄空手の特徴としては、伝統的な型稽古や鍛錬法を重視して
いる。組手は、本土よりも遅れていたが近年は全空連式の
寸止め方式が逆輸入されて盛んになっている。以前は防具組手
も行われていた。ほかに武器術や取手術の併伝などを挙げる
ことができる。しかし、沖縄空手も糸洲安恒以降近代化しており、
また本土からの影響もあって、琉球王国時代そのままというわけ
ではない。明治以降、東恩納寛量や宮城長順による那覇手の
改革、新たに中国からもたらされた上地流等の普及により、琉球
王国時代の特徴をそのまま継承する流派はむしろ少数になって
いる。湖城流のように戦後県外に流出した古流流派も存在する。
しかし、少数の道場では、今日でも古くから伝えられた技や
稽古法の保存に努めている。近年では沖縄県自体も空手の
発祥地を意識して、「沖縄空手」の国際的な宣伝に力を入れている。

 沖縄空手の流派には、三大流派として剛柔流、上地流、小林流
があり、他に沖縄拳法、少林流、少林寺流、松林流、
本部御殿手、沖縄剛柔流、沖縄松源流、劉衛流、金硬流などが
ある。本土の空手会派とは組織形態が異なり、多くの沖縄空手
会派、流派は単独組織を維持し、本土より世界各国に、
より数多くの支部道場を持ち、世界的な大きな広がりがある。

<段級位・色帯・称号>
空手道の段級位制や色帯制は、柔道を参考にして導入された。
段位は大正13年(1924年)に船越義珍が発行したのが、
空手道史上、初めてと言われている。

ーとまれー
 参考になる空手の歴史のさわりになる部分(上掲)に触れたが、
翻って新垣氏の両書の根幹は
「明治の廃藩置県以前の琉球王国の空手(首里手)」の
解明・再生。人を倒す武術としての、究極の型「ナイファンチ」
そして「平安の型」「クーシャンクー」の古来の原型にせまる。
型(形)そのものが攻撃・受け(格闘の技)で分解の必要がない
とする。
われわれの理解する空手との余りの差異に愕然とする。
列挙してみよう。
・ガマクの活用(体内での仮想の重心移動)
・正中線の考え方(とらえ方)
・引き手は要らない
・突きは手が先(腰を回さない)
・逆突きはない
・身体を固めるな(肩の力をぬくな)
・三歩も一歩
・転身、交差は投げ
・倒地法で蹴る(居着いた蹴りは武道空手の蹴りでなし)
・つかんだら蹴れ、つかまれたら蹴れ
・演武線と正中線の一致
・突き、受けに双手はない
・両手で受けと攻撃
・手刀は受け、置き、当て、喉輪、そして投げ
・ナイファンチが全て(究極の型)
・それにあえて加えるなら回し蹴りなし(直線の回し蹴り)

なんと現在の空手の否定ともいえるではないか。
氏(著者)の考えは「沖縄武道空手の真髄」よりも
前著の「沖縄武道空手の極意」のイントロが判り易い
ので抜粋・引用してみよう。

 「近代に入っての理念や技術は、競技方法の差異によって
優劣がつけられたり、本来は枝葉であるべきの技の種類や
数が空手の本質的要素であるとの、間違った評価を与えられて
きた。そのために沖縄空手の本質である、形において身体操作
の理念を完全に理解して、それを実際の闘いや、護身に当て
はめること。すなわち『形を使う』という言葉自体が、まったく
取り違えられてしまった」

「実際の闘いにおいて、自分と対峙する人間が行う動作とは
千差万別であり、相手が素手の時、あるいは武器を持った時
など。そして相手と自分の置かれた時や場所などで、
すべて違ってくる」

 「首里手の理念の結晶である『ナイファンチ』の形を、壁を
背にした時に使用する技の修得。またはこの形は打撃系の
方法ではなく、投げや関節技、あるいは急所への差し込み技の
総体であるとする考えは、このような形本来の意味を取り
違えたところから生まれ出てきた。本当のことを言えば、
「ナイファンチ」の理念を技に生かすことが出来れば、素手での
突き蹴り、投げ、極めはもちろんのこと、武器を持っていても
究極の闘い方ができるということであり、言葉を変えれば
身体操作を徹底的に学ばせる体術としての働きがあるのだ。
そのために人間の行動の根源的な要素を徹底的に理解させ、
それを相手に対して心理的・肉体的な虚実を作りながら
繰り出せる身体操作を修得させる「ナイファンチ」を理解すれば、
突き蹴りは勿論のこと投げ、関節への極めなどの技は、副次的
に産出されるものでしかない。
武術においては根源にある一(ひとつ)を理解すれば、
千も万の技を作り出せるとし、その一つを徹底的に理解させる。
これが日本武道の根本的思想である、『一つの大刀』に繋がる
考えだともいえる」

「俗に言えば形の理念さえ分かれば、『形の分解』としての技は
無限に生まれてくる。ただ理念が分からずに形を分解して
しまうと、それは無駄な練習方法になってしまうのだ」

「例えば形の中ある動作で中段への蹴りを受けて、上段への
突きを返す。または、上段への突きを、関節への蹴りで返す
などの動作を実際の闘いや組手で使うことだけが、『形を使える』
ことだと理解したのだ。そしてそれらの技が組手や実戦で使え
ないために、『形は使えない』という間違った考えが蔓延した。
それに対処するために指導者側は、『使えないのは、練習量が
足りないからだ』と返答して、修行者に無意味な形やその理念の
反復練習させることに血道を上げることになる」

「現代の空手家は、なぜ形が使えなくなってしまったのか?
それは明治維新後に体育化をめざして変革された形を、実戦に
使えると思ってしまったこと。次に形の外形は変わらなかったと
しても、西洋身体文化の影響で日本国内において武術的な
思考方法が失われてしまうし、形の根元を成すエネルギーの
始動の原理が完全に失われたことに由来する」

「そのために誤解を恐れずに極論すれば、現在では空手発祥
の地である沖縄空手界においてでさえ、『形を使える』人間は
皆無に等しい。武道の中の武術として発達した沖縄空手は、
現在の空手が強調するような『腰を回す』ことをせず、
『作用・反作用を利用する』ことをしない。そしてゴルフや野球で
強調されるように、前足を固定して『壁を作る』働きでエネルギー
を創出することをしない。
いや!それらのスポーツ化された動きをしないからこそ、
最小の動きで、最大のエネルギーを得ることを
可能にさせる。武術としての空手においては腕や足などの部分、
または外側の太く大きな筋肉は『使われる』ために存在し、
『使う』ためには存在しない。
ではどこの部分を使うのか?
体幹(タイカン)と呼ばれる胴体の部分の、奥底に潜む、細い
小さな筋肉を使うのだ。そして外側の腕や足、または大きく
太い筋肉は、これらの小さな筋肉に使われるものとして存在
するにすぎない。
この方法は、近代西洋思想から生まれてきたスポーツの
身体思想が行き着いた、数段も上の段階にある。
幸いなことに、現在の空手界は『形を見直す』方向に向かって
いっている。
ただ西洋身体文化全盛の21世紀に住むわれわれは、
その見直す形自体がいかに変革され、かつ形を解釈する
われわれ受け手側が、どれほど西洋身体文化の影響で
育ってきたのかを理解できないでいる。
しかしこれからの空手家が古伝の武術としての空手を研究し、
研磨することによって、われわれの修行する空手と呼ばれる
武道が、いかに優れた理念と技を持っていたかが明確になって
いくはずだ。
自らの立脚点として、誇るべき拠り所を持つ者は幸せである。
そして武道としての空手は、他のいかなる身体文化と比べても
誇るに値するだけの立脚点を、すべての修行者に与えることが
できる。この本を手にすることによって、一人でも多くの空手家
が、己の修行する空手がいかに素晴らしいものであるのかを
認知し、誇りに思うことがあれば望外の幸せである」

最後に
 ー武術として伝承された沖縄空手のすべてを解き明かすー
残された人生を全てかけると筆者は締めくくる。

<この書を2回読み終えて>
ため息ばかり。正月休みがふっ飛んでしまった。
436ページ。分解写真が数百枚。
説明がくどきに過ぎるのは「空手の形」を言葉で表す難しさで
あろうか。
空手を自分の人生そのものとした著者の思想・理念の吐露と
いうべきなのだろうか。 

 長きにわたったが、論評ぬきに是非ご一読を!
「沖縄空手の真髄」原書房刊、「沖縄武道 空手の極意」福昌堂刊
の両書を。

2013.12.29 <年の瀬にあたって>

”命にもまさりて惜しくあるものは
     見果てぬ夢の覚むることなり”

 石原慎太郎の言葉「人生は情熱を演じる劇場だ」
と著書にあるが、情熱の醒めるときが怖い。
人生いたるところに青山ありで挫折はつきものだが
そんなときは投げやりになりがちで冷静な判断が
望めない。ありがたいことは空手(武道)を続けていると
耐え性ができ我慢ができることだ。心身ともの鍛え、
バランスのとれた健康がいかに大切か。

 今年一年も大過なく過ごせたことお互いに感謝。
新年に期待して・・
”良きお年をお迎えください”

2013.10.05 <試合>

 オリンピック開催が東京に決まったこともあり、
ふと目にした「2000シドニー」村上春樹を読んでみた。1996年の
アトランタの後のシドニーオリンピック。作家の目からの
アスリート達のすさまじい生態は度肝を抜く。表面の華やかさ
に埋もれた感動もあり、今読んでも新鮮。

 「オリンピックは勝つことではなく、参加することに意義がある」
はピエール・ド・クーベルタン男爵の言葉とされるが、かねてから
非現実的だと疑問に思っていたが、この書に答があった。
実際には下記の如く言った。
「人生において大事なことは、勝利ではなく、競うことである。
人生に必須なのは、勝つことでなく、悔いなく戦ったということだ」

 10月20日に新宿区空手大会に山吹道場から3名出場する。
高大と部活を続けたN女子は特別として、男性2名は30代半ば
から始めて6年。現在40歳に到るが、日ごろの力を発揮し
不完全燃焼をきたさず「悔いなく戦う」ことを切に願う。

2013.08.18 <開脚(股割り)

「股割りができることが空手をやる最低条件だ」
亡き大山館長の言葉だと、かって在籍していた
極真道場で聞いたと練習生の高木氏は述懐する。

股割りの重要性は言うまでもないが、出来る出来ない
より、そのことをはっきりと意識できているかどうかによって
稽古の質も、身体能力(技量)の伸びも違ってくる。

週2回の稽古時の柔軟運動だけでは限りがある。
やはり日常生活の中でのストレッチが必要だ。
ユーチューブを見て驚いたが、今や股割りに関して
(運動方法)が結構公開されている。DVDもあるようだ。
映像に説明。非常に分かり安い。時間のあるときに
一度検索されることをお奨めする次第。目から鱗が
落ちますよ。


2013.07.23 <基礎体力>

 「小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、胸の
へこんだ貧相な人々。身長は5フィート(約152cm)ないのです」
これは他のどこの国でもない、まさに日本の話。
明治初に来日したイザベラ・バード著『日本紀行』に見られる
日本人の体躯の特徴の一節。

 衆知の如く、戦後あらゆる面でアメリカナイズされた食生活の
影響から、ここ数十年で一挙に身長も伸び寿命も統計的に
延びてきた。

 ただし基礎体力が向上したとは決して言えないようだ。
卑近な話に移ろう。今回の岩井海岸の合宿、総勢16名
(内女性5名)で概ね合宿の成果を得たと判断しているが、
残念ながら若干名の練習生が何年も稽古しながらも、
腹筋・スクワットなどの基本筋トレに音をあげスタミナ不足を
露呈。2泊3日は決して短くはない。日ごろから技の習得優先で
基礎トレーニングを疎かにしていたのが目に見える。

 同じ佐野荘で合宿していた日体大のライフセーバの学生の
基礎体力のレベルの高さには驚かされたが、一定の基礎体力
なくしてどんなスポーツも練度を上げることは出来ない。
空手の鍛錬は技だけではなく、筋トレ・ストレッチ・食事法をも
同時平行に行うべきで、心身ともに健康な質の高い生活に
つながる正しい練習の仕方を行うことが望まれる。

 なにはともあれ、思わず学生気分に戻った2泊3日だった。

2013.06.09 <岩井海岸の合宿>

 毎年やっている合宿を去年は中止にした。合宿のない年は
初めてだったが、合宿の意義を考えるのには良かったと
思う。今年は道場生の中から合宿開催の声があがり、
S山君が世話役を買って出、道場生も大半参加するように
なった。このままだと合宿が永続的になくなるのではないかと
危惧したかもしれない。

 ずばり道場生が必要ではないと思うのであれば、合宿は
開催しないし、やる意味がないと考える。
カルチャースクールの合宿ではないし、パッケージ観光
ツアーでもない。空手合宿は花畑のみを追い求めて
いる人たちには心地よかろう筈がない。

 合宿。社会人にとっては学生時代とは違って参加するには
非常な決心がいる。学生のように一年に何度も長い合宿が
できるはずもない。せいぜい二泊三日。隔離された海浜で
の稽古のみの非日常性。究極の集中。救いは合間の休息、
ほっとする飲み会。やがて岩井を離れるときには充実感・
連帯心・達成感に満たされる。

 名曲ホテル・カルフォルニアは刑務所の意味だが、
岩井海岸民宿・佐野荘にも惹きつける何かがある。今回は
2年ぶりのキツイ楽しみが待っている。

2013.05.24 <スロートレーニング>

 30歳台半ばに入門した山吹道場の練習生たちが
中年と云われる40歳台を迎え始めている。落ち着く
年代ともいえ社会生活も安定してきたようだが、
筋トレの仕方を再考するのも一興。

 どんなスポーツも競技力を上げるため、また
健康作りのために、筋肉トレーニングは常識と
なっているが、安全で効果が高い『スロートレニング』
をお奨めしたい。自体重だけの軽めの負荷。
ゆっくりした動作で行い、筋肉が緊張した状態を保つ。
例えばスクワット。普通の自体重なら15回できる人が、
3~5秒かけてゆっくり腰をおろし(しゃがみ)、
同じく3~5秒かけてゆっくり立ち上がる。5回やれば
15回に負けない効果があり、これを3セットもやれば
相当の効果が見込まれる。生理学的な説明は省くが、
自体重なので無理な負荷もかからない。
ウエイトトレーニングでも軽めのダンベルでスローに
上げ下ろしするのも効果的だ。筋トレの強度は
負荷の強さや回数だけでは決まらない。また上げる
ときよりスローに下ろすトレーニングのほうが、
筋断面や筋力が増える割合が大きいこともわかっている。

 筋肥大のメカニズムはまだまだ未知なところもあるが、
よく体のしくみを知り、生理学的な基礎知識を身に
つけることで、より効果的なトレーニングが行える
ことに着目していただければ幸い。

2013.04.13 <空手とクラシックバレー>

 武道と舞踊。開ける世界は違うが、なんと体の動きが似通って
いることか。

 今から40年前、日本のロケットのパイオニア(先覚者)の
糸川英夫博士は60歳の時、貝谷バレ-団に入団したが、
氏は60歳になる前、雑誌やテレビで盛んに60歳から
はじめる運動として空手とクラシックバレーを挙げ、選択に
迷っているとした。

あげく選んだのはバレー。その決断理由は『音感(リズム感)
があるバレーは空手よりもっと強い(凄い)』。
ちなみにバレーの基本動作を挙げてみると
・アチチュード 片足で立ち、もう一方の足はひざを直角に
 曲げて後方に上げるバレエの代表的なポーズ
・アンシェネ 連鎖的に回転を行うもの。
・アントルシャ 空中に飛び上がって、両足を打ち付けながら
 交差させる跳躍の動作。
・ピルエット 片足を軸として、そのままの位置でこまのように
 回転すること。

その諸動作は回し蹴り、空中とび蹴りと紙一重。
何を取り上げても中途半端じゃできない。飛び上がる
反発能力・身体能力・・幼少から鍛えあげてきたその成果が
人の目に美と写る。その体のしなやかさのキーは柔軟性。
以前観たモスクワでのボリショイバレーで、エトワールが
ステージから何段目に着地するか分からない階段に
こともなげにジャンプ。段差はものとせず柔軟性でクリアー。
神業に見えた。

いたずらに技に走らず、基礎体力をつけ柔軟性を養うのは
バレーに限らず空手も同じで同根のものではないか、と思うに
バレーの基礎は柔らかい股関節、ぶれない下半身の安定性。
びたっとつくまた割りは初心者コースを終えたころには誰にでも
できるという。バレーは適性もさることながら、上級にあがる
のには半端ではない資質と努力が要求されるようだ。
一方空手は適性は関係なくやるき・努力重視。「為せば成る」
世界だが、思うにあまりにも精神論が勝ちすぎている。
いかんせんもっと肉体の構造・性質を知り柔軟性を希求した
総合的で合理的な空手の練習があってしかるべきではないか。
今に至って故糸川博士の選択がなんとなく解る気がする。


2013.030.2 <筋トレとストレッチ>

 非常に判りやすい手引書が最近出版されました。題して
<ジムに通う人が知っておきたい最新トレーニング科学・
洋泉社>。
運動に関する新しい知見が一般化するのには10~15年
かかるといわれていますが、この書は運動生理学の最新知識
からの筋トレ&ストレッチのやり方を解説。 もちろん、筋トレは
ボディビルダーのような体になることではなく、鍛える筋肉の
種類ーいわゆる白・ピンク・赤肉ーによって効果が違うことは
今や広く知られている常識であることは念のため。

書の前半部の説明に
 「運動などをしない生活だと、筋肉の量は30歳ぐらいをピーク
に減り始め、70歳台で約3分の2の筋肉量になります。とくに
大腿部、尻(臀部)、腹、背中の筋肉の減少が著しく、
年に1%というスピードで減り続け、70歳ではピーク時の
半分になってしまいます。
 なぜこのようなことになるかというと、人の体は筋肉を
使わないのなら、筋肉を減らしてエネルギーの消費を節約しょう
とするからです。筋肉は体のエネルギー消費の約4割を占める
『最大のエネルギー消費者』です。ですから筋肉を減らすことで、
できるだけ省エネで過ごせるようにしょうとする方向へ作用する
わけです。
 一方、適切なトレーニングをすれば30歳をすぎても筋肉は
太くなります。適切な筋肉トレーニングによって、104歳の人の
筋肉が太くなったという例さえ確認されています。50歳、60歳
ではたんぱく質の摂取を意識して、適切な負荷をかけた
筋肉トレーニングを続ければ、無理なく筋肉を強化できるのです。
データを駆使し、運動生理学上からの説明は説得力があり
納得させられます。

山吹道場では
 準備体操は「体を起こすストレッチ」、整理体操は「体を寝かす
(休ませる)ストレッチ」としていますが、この書では
「2種類のストレッチを使い分ける」とあり、「ストレッチには、
リラックスして筋肉を一定方向にゆっくり伸ばす『スタティック・
ストレッチ』と、動いて筋肉をほぐしていく『ダイナミック・ストレッチ』
の2種類がありますが、いずれも目的は筋肉の余分な緊張を
取り除いて、関節の可動域を広げることです」
とし、筋トレとストレッチ。双方をバランスよく行うことで、強靭で
しなやかな筋肉が作られていくと明言しています。

 正しい知識でする筋トレとストレッチはスポーツに欠かせぬ
ものですが、この書にはトレーニング効果を高める食事と
栄養補給にも触れており、
「回復力の”ゴールデンタイム”は3回ある!」とあり、
「1回目は運動を終えてからの約20分後、2回目が約2時間後、
そして3回目が睡眠中」はまさに目から鱗の思いですが、
くわしくは本を手にとって目を通すことをお奨めします。

この書のイントロにいみじくも、
 「人が元気に年を重ねていくために不可欠なのが『食事』
『休息』そして『適度な運動』です。しかし、ラクをしょうと思えば、
とことんラクができる現代社会では、意識しなければなかなか
運動を継続することが困難です」と。
社会人にとって運動(空手)を続けることはまさに、
”自分との闘い”で、まさに心身とも健康への”道”といえます。

読みやすい文庫サイズです。是非ご一読を!

2013.01.01 <元日の計>

『何となく
  今年はよい事あるごとし
    元日の朝、晴れて風無し』

 石川啄木が詠んだ正月の晴れやかさ。昔も今も
変わらない。こんな何でもありの世の中だが、
身を正した年初の誓いを大切にしたい。

 欧米と違い日本の年始はリセットの始まり。
元日に新しく一年の計が結ばれる。

 目標を持ってすすむ者にとって、空手の稽古が
一服の清涼剤となり、心身ともの健康の支えに
なり、意義ある人生を送る一助にならんことを
願う今日元日。

2012.12.08 <礼節>

 武道は「礼に始まり、礼に終わる」とよく言われるが、
今の世の中でどこまで実践されているのだろうか。
歴史を遡ってみよう。
コロムビア大学の高名な女流学者が言った。
「19世紀の貴族で生まれるのならロンドン、
市民で生まれるのであれば江戸」

 礼とは人と人の間に存するもの。えもいわれぬ
江戸の町人気質は以下の四点に集約される。

(一)人と話をする時は、相手は御仏の生まれ
  変わりだと思って遇する。
(ニ)時泥棒をしない(時間の約束は守る。時は
  金で買えない。「死んだらごめんね」は死なない
  限り約束は守るとの江戸のことば。大名時計
  しかない時代であったが。
(三)肩書きに拘泥しない(相手の身分によって態度
  をかえない。旗本であろうが、お殿さまであろう 
  が。一心太助がよい例)
(四)遊び心を持っていた(宵ごしの金を持たない、
  歌舞伎、寄席、祭 浮世絵に見られるように
  独自の人生観が培養されていた)

 温故知新というよりも、誰しもが身に付いて欲しい
人間の属性と言えるのではなかろうか。

2012.11.23 <合縁奇縁>

 本日(11/23)飯塚くんの結婚式に参席。
世田谷のお洒落な会場。仲人なしの今様の祝典。
藤谷師範の演武も決まり拍手喝さい。
そういえば今年1月の道場生の伊藤さんの
披露宴を思い出す。
かっての道場生の渋谷くんの紹介で飯塚くんは
新婦と出会う。4年間の交際期間を経て華燭の典。
きっかけは空手道場から。縁とは摩訶不思議なもの。
合縁奇縁。どこでどう繋がるか計り知れない。
一期一会。縁は大事にしたいものだ。
 気心の知れた仲間の結婚式の雰囲気は参席者の
幸福度を高めてくれる。 思わず筆をとったが、
幸多かれと祈るのみである。

2012.11.05 <人の旬>

 人にも旬な時期がある。 職・仕事で一番光り輝くとき。
最強年齢とも言えようか。 職別に例をあげてみよう。
・ボクサー  25歳
・ピッチャー(野球) 30
・打者 (野球)   32
・水泳    18
・体操    22
・科学者   28
・教授    38
・医者    45
・弁護士   50
・裁判官   58
・経営者   60
・コンサルタント 65
・政治家   ? 
ある経営セミナーで教わったのだが、正鵠を射ているか
どうかは判らないがメルクマールにはなる。
では空手は?
かの大山増達は自伝で35~6歳の時が最強だったと吐露して
いたが、学生空手の若さの勢い、心身とも充実した30代、
成熟の40~50代も侮れない。人生を振り返る枯れた
60代も捨てがたい。要は継続。心の持ち様か。

2012.9.27 <稽古>

 「稽」は「考える」という意味で、漢語「稽古」の原義は
「古(いにしえ)を考える」「昔のことを調べ、今なすべき
ことは何かを正しく知る」と「語源由来辞典」にある。
ひいては日本武術などの型(形・かた)練習においては
過去の達人であった先人の遣った理想的な型に近づくべく
修練すると理解されている。

<山吹道場の空手は>
・伝統空手
 稽古は基本、形(かた)が中心で、その成果として
 応用(組手)もやりますが、組手偏重はしません。
 稽古を続けると結果的に強くなるのは当然ですが、
 伝統空手(近代空手道の祖、師船越義珍)に基づいており
 フルコン道場ではありませんので、ただ組手(喧嘩)
 のみに強くなろうとする単なる格闘技志向の人には
 向かないといえます。
・日常生活との調和
 稽古を続けることが生活にプラスになり、健康維持/落ち着き/
 ストレス解消/逞しさ/いざという場合の身を護るための力
 (滅多とありませんが)/マナー改善などが顕著になります。
・一生続けることの出来る空手
 『継続は力』若い時だけの、一時的な、喧嘩に強くなるだけの
 空手ではありません。稽古は精神力の強化(心身とも)健康な
 体躯の維持、汗をかいた後の充実感、心の豊かさ。道場が
 究極の『憩いの場』になることを目指しています。
・社会人として
 大学・空手部空手学科のドカ練と比べるべくもありません。
 貴重な時間を使う週1~2回の稽古。よく体の機能を知り、
 考えた空手を志向するのが望まれます。

 『一期一会』を大切に。

2012.8.11 <スポーツオノマトペ>

 金メダリストが「叫ぶ」のには理由があった!
なぜ一流選手(トップアスリート)は声を出すのか。

と副題のつく本『スポーツオノマトペ』藤野良孝著
がある。オノマトペの語源はフランス語の「擬音語」
「擬声語」から、広義に「体育・スポーツ時に用いられる、
または発せられる”音(声)”」

 書の内容をかいつまんでみると、
「ルンルン」「ゴクゴク」「スカッ」「ウルルン」など
微妙なニュアンス、リアルな表現、キャッチフレーズで
用いるようなシンプルでわかりやすいインパクトを持つ
従来のオノマトペは「コミュニケーション機能に働きかける」
とすれば、ハンマー投げの室伏選手の威力を引き出す『ンガーッ』
にみるように、スポーツオノマトペは身体や運動機能の
促進・制御に働きかける作用があるとする。

ひいては格闘技、
 いわゆる「気合」「掛け声」にしぼって見てみると
ブルース・リーの怪鳥音アチョー! 真似をし奇声を発して
蹴りを繰り出したりすると、自分が強くなったような
気がする。ブルース・リーの使用したようなスポーツ
オノマトペには、とくにモチベーションを上げる効果
(と相手を威嚇する効果も)が認められ、自分自身の気持ちが
高揚し、強くなったような気がし、運動パーフォーマンス
を向上させる機能をもつと考えられる。
ちなみに、ブルース・リーとジャッキー・チェンが戦った場合、
「アチャー」「アチョー」「アチャ、アチャ」と「ヨッ」「ハッ」
「フ」「ウワ」。スポーツオノマトベからみると、明らかに
「声」の力でブルース・リーの方が強いと断言できる。
実際、ブルース・リーの映画(DVD)を音声を消して観ると、
スピード感や緊張感、破壊力など、すべてが消えていることに
気がつくはず。 つまり、彼の出演映画では怪鳥音が重要な
要素を占めているのだ。 

カンフー業界では「アチョー」はいまだに永久欠番になっている。

2012.7.21 <声を出す>

 オリンピックのアスリート達が競技中に発する「ヨイッショー!」
「サア!」などのかけ声は、古くは体操のチャスラフスカ、
今はテニスのシャラポワ、卓球の愛ちゃん、ハンマー投げの
室伏選手などが思い浮かぶが、NHKのためしてガッテン
(6/27放映)の考察は、武道をやる者にとっても非常に
興味深い内容だった。

 【リズムで脳を刺激!魔法の言葉で能力開花】とあるが、
かけ声がただの気合入れ(息を止めず力みをとる吐く行為だが)
かと思ったら、科学的に詳しく分析すると、なんと脳のある部分を
強く刺激し、潜在能力を限界まで引き出す驚きの効果が隠れて
いたとのこと。実際にゴルフのドライバーの飛距離アップや、
スポーツのみならず日常の家事・・・中華鍋の返しで説明(証明)
していたが、
・音のリズムが持つ不思議な能力
・小脳をリズムで動かす
・リズムにあわせて体を動かす
・上達のカギは声
として
・眠れる能力を引き出すのは「大脳」の前頭前野の活動低下・・・
 邪念を消し去る(無心)
・小脳の働き・・・何も考えなくても動きを自動化する
・目からの情報は大脳に、耳からの情報は小脳に届く
・違うリズムに触れることで新しい動きを身につける
・それぞれの運動に合った言葉を出すことが重要
と解説。

運動時に声を出す・・・いの一番から気合を出す空手の稽古。
身につまされる話ではないか。

2012.6.22
<又割り>

 苦手に思っている人が多い。毎日風呂上りに5分間励行すると
3ヶ月で又割りができる・・と言っても現実にやる人はいない。
誰しも難しい技に挑戦しても、シンプルで痛い?又割りを避ける
傾向にある。

 空手と動きの似ているクラシックバレーは股関節の柔らかさは
必須。国技の相撲取りも又割りの出来ない関取は居ない。
空手の技は股関節の柔軟性があってはじめて自在になり、
怪我も少なくなる。
勘違いは又割りを軽んじ、若さの勢いで回し蹴りなどの高度な
「技を体得した」と思い込むこと。ちょっと年を重ねればすぐに
脚が上がらぬようになり、思い知らされることになる。

 又割りは痛いから積極的にやらないは問題。自分の体重範囲内
の負荷で徐々に可動域を拡げるのは、推奨できることであっても
無理難題とは思えない。誰か、三ヶ月とは言わないが半年後
にピタっと又割りができる練習生が現れないだろうか。
楽しみにしている。

2012.5.21 <守破離>

 春から初夏にかけては、道場入会希望者が増える時期だ。
体験時に必ず話すことは、覚えることよりまず道場の雰囲気に
慣れること。 それから
一 教えられた通りしっかり基本を覚える(身につける)こと。
二 次は応用編で自分で考え、技や型を自ら磨き得意技を
   つくること。
三 心技を鍛えた後は、自分独自のもの(世界)を創ること。

これは『守破離』の教えを根底としているのだが、多言をひかえ
できるだけシンプルに説明しているのだが、どこまで心に
残っているのであろうか。

 守破離の謂れだが、高坂弾正昌信の「甲陽軍鑑」に記された
兵法用語であり、それを千利休が、
「規矩 作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても 本を忘るるな」
と詠み、
これを江戸千家:不白流茶道開祖の川上不白が「不白筆記」にて
「弟子守ヲ習盡し能成候へバ自然と自身よりヤブル」とし
横井淡所の「茶話抄」等で説き、諸芸の『道』の指針となる。

省みて武道の『空手』では、
型を忠実に学び基本を習得する段階を『守』。
その型を打ち破り、新しい型を創る段階を『破』。
既存の型や知識にとらわれず、模倣していたものから離れ
自ずと自在の境地に至る段階を『離』。
                             押認!

2012.4.13 <散り際>

 ”花は桜、人は武士”散り際を潔く・・幼少のころから
よく聞いた文句だ。

 実際、満開の桜より散る桜”花吹雪”の美しさには
目を見張る。四谷から市谷、飯田橋までJR土手(外堀)
を11日の午後に歩いた。 盛りを過ぎたので場所とり
のビニールシートもまばら。微風に散る桜の絨毯は
踏むのに惜しい気持ちにさえなる。

 そういえば山吹道場の花見は絶えて久しい。ひところは
稽古を早く切り上げ”千鳥が淵”で夜桜を楽しんだものだが
いつまにか消えてしまった。

 わが敬愛する毒舌の社会評論家・大宅 壮一の晩年の
人物評
のバロメータは、"潔いかそうでないか"であった。
こよなく桜を愛でるまさに日本人の美学ではないかと今で
こそ思う。

2012.3.17 <空手を始める理由>

 『強くなければ優しくなれない』

 今や国会議員のヒゲの隊長の言った言葉だが、
レイモンド・チャンドラーの最後の作品中で、おなじみの
探偵、フィリップマーロウが言う
「強くなければ生きてはいけない、 優しくなければ
生きていく資格がない」 が連想される。

そして少林寺拳法開祖も言っている。
「力なき正義は無力なり」

実際に空手を始めた理由を聞いて見ると、
・喧嘩に強くなりたい・・古典的だが今も変わらないか。
     男性のDNAともいえる。
・護身・・自分・家族・友人を守るため、相手を完膚なきまで
     叩きのめすのではなく。
・憧れ・・「空手バカ一代」の影響。マンガ世代。
・精神鍛錬・・体だけではなく、武道として精神まで。
・気合の世界・・カルチャースクールに飽き足らず。
・型の美・・かっこうよさに惹かれて。
・礼儀/礼節・・が身につく(とくにキッズの親御さん)
・健康維持・・全身運動で呼吸法まで。
・やりたかったから・・理屈ぬきにただやりたかったからは
       居ないようで結構いる。
<目をひいたのは>
・柔軟性を求めて・・全身、とくに脚を多く使う空手は、
       柔軟性は必要不可欠。柔軟性がなければ
       使う技も限られる。体が硬いから空手(運動)が
       できない(不得手)ではなく、硬いからやる・・
       その逆転発想の新鮮さに驚き。

 理由・動機はなんであれ、生きるための強さを求めて
真摯に稽古を続けることは、自分自身の内に
何かが生まれ、何かが変わる。

2012.2.29 <継続は力>

 山吹道場の練習生はほとんどが社会人だが、4年前後の
在籍者が半数近くになった。初心者から黒帯に到達する
道場生は多くはないが決して少なくもない。
週2回とはいえ月次で皆勤賞をとるのは至難の技。
残業・飲み会・ヤボ用・家庭・体調などと休む理由には
事欠かず、稽古に来るのを習慣づけるまでは心の葛藤は続く。

 当道場はC大学の糸東流の流れを汲むが、ひと頃の
大学空手は圧巻。一日3時間以上の練習を週6回。
合宿は春・夏の2回。春休み・夏休みはなし。まるでタコ部屋。
バイトをやりながら空手学部空手学科を4年で修了。
ノスタルジアさえ感じるが、今は一部の大学以外はそこまで
やっていない。、がそれでも週4~5回の稽古に一年に
1~2度の合宿。それもハードだ。
学生はすべて『青春の勢い』でこなす。

 一方社会に出てから門を叩いた人の中には、非常に高い
モチベーションを持ち、少ない手持ち時間を有効に使い
努力を惜しまぬ人たちが居る。
そんな道場生は自制心に富み、生きる心をも鍛えていると
言えよう。
社会人の週1~2回の稽古。このサンクチュアリをどう生かす
かは自分次第。
『継続は力』 肝に銘じてほしい言葉である。

2012.1.22 <姿勢>

 『病人と呼ばれる人にスラッとした姿勢を保持している人は
いない』はネットでみかけた整体関係者の言葉だが、
悪い姿勢は、見た目の問題だけでなく、健康障害に深い
関わりがあり、それは年齢があがるにつれて顕著になって
いくようだ。

 圧倒的に姿勢のいいのは剣道をやっている人だが、弊道場では
M君やN君らの野球経験者の姿勢の良さが目立つ。姿勢の良さと
性格の良さは連動しているのであろうか。

 成人クラスでもややもすれば正座の姿勢が腰くだけになって
いる人を見かけるが、5本の腰椎をしっかり伸ばす意識が
必要だろう。
とくにキッズクラスでは目をおおう。周囲に教える人が
居ないのか、また本人も子供心にその必要性を感じないのか、
都度注意するがすぐ元の黙阿弥。
それでも注意をし続けているが、正直いってツカれる。

 姿勢を正すことはモチベーションで維持できるスタイル矯正法
であり、健康法でもあるのだが、心の持ちようにまで影響する
といえるかもしれない。

姿勢を良くすることは
1.疲れにくいこと。
2.身体に負担がないこと。
3.動きやすいこと。
と聞くが、見た目にも爽やかだ。反対にだらけた姿勢は
見た目に良くなく、おおげさに言えば周囲に精神衛生上の
悪影響(嫌悪感)をおよぼす。

 意識とエクササイズの組み合わせで、姿勢はどんどん良くなる。
空手世界の精神鍛錬の一命題として、そして美学として
正しい姿勢を希求していただきたいものだ。

2011.12.29 <経験年数>

 「ゴルフ歴10年」と月1ゴルファーが言うのは微笑ましいが、
武道の月1稽古で10年のキャリアというのは首をかしげたく
なる。よく言われるように中高大と10年も英語を習ったのに
話せないというのと同類か。

 ベトナム戦争当時、アメリカ兵が現地で必要なベトナム語の
研修(訓練)の認定は受けた時間数でレベルを呈示。 例えば
最低単位の15時間の研修では尋問(質問)で相手の名前、
武器の有無などの簡単な必要最小限度の会話レベル。
100時間以上になると、敵部隊の移動や作戦内容などの
情報を聞き出す語彙がだんだんと豊富になる。ただ単に
経過した月日ではなく、学習した(訓練した)時間=密度=実力
とも云えようか。

 またお隣韓国では兵役義務があり陸軍に行くと2年2ヶ月。
兵役中、ある時期にテコンドーの訓練を2~3ヶ月やる。
みっちり朝8時から17時までテコンドー漬け。短期で集中して
(圧縮してといえようか)みんな黒帯クラスになるわけだ。

 平和で自由で平等な日本。社会人としての空手の稽古は
生活のリズムに織り込んだ週1~2回の稽古は確保したい
ものだ。
それではじめて経験年数としてカウントされるのではなかろうか。
まさに『継続は力』である。

2011.11.30 <木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか>

 長編。日本の格闘技の流れが如実に判る本と言っても
過言ではないほどの力作。戦前の高専・武徳会そして
講道館柔道から現在のプロレスまでのルポルタージュと
言ってもよい。

 大正11年(1922年)講道館秋季紅白戦で早大(講道館柔道)
24名が六高(現岡山大学・高専柔道)4名に全員抜かれる。
「今の自由なルールでは寝技中心の高専柔道には勝てない・・」
その事実が後に、グレイシー柔術に寝技に引きずりこまれて
何もできずに負け続けたボクサーや空手家の打撃格闘家に、
ひいては今やスポーツ柔道になったいわれる講道館柔道にも
繋がる。

 昭和29年12月22日午後6時30分
小生が小学生の時。手に汗を握って見た「力道山vs木村戦」。
大勢で見た白黒テレビ。どこで見たか記憶にないが、
テレビもラジオも今でいう視聴率100%。時の総理大臣も
テレビにかじりついていたという。
木村が敗れたことになるが、一生木村の怨念は残る。

 木村政彦、熊本出身、170cm、75kg~85kg。講道館の開祖
嘉納治五郎と同じく、木村は柔道を”総合格闘技”としてとらえ
柔術の当身は当然として、ボクシング・空手も習っている。
ボクシングとの出会いは戦後の混乱期、喧嘩で米兵を4人のした
ところ、逆に賞賛されGHQ熊本の柔道の講師に招かれた時、
教え子のヘビー級海兵隊チャンピオンに教わっている。
空手は戦前、船越義珍のもとで松濤館流を1年、その後義方会
の曹寧柱のもとで剛柔流を5年ほど修行し、東京支部の師範代
までつとめている。

 ブラジル。バーリトゥード(「何でもあり」「ルールなし」)の
発祥の地、いま世界で隆盛をきわめている総合格闘技(MMA)
の祖国。地球の裏側にあるこの地で、講道館柔道が別の方向
に進化し、ブラジリアン柔術となり総合格闘技となったが、
そのグレイシー柔術の第一人者エリオ・グレイシーを木村が
寝技で破り、日系人の大賞賛を浴びる。今もグレイシー一族から
エリオを落とした技をキムラロックと尊称されている。

 戦後、総合格闘技とプロレスの狭間にゆれながら、食うための
興行が続いたが、「力道山との巌流島の決闘」で木村の人生が
大きく狂う。

 戦争をはさんだあの時代の峻烈な木村の生きざまとその背景。
武道を学ぶ者として是非目を通すことをお奨めします。
二段701ページ、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」
増田俊也著。

お奨めの関連本は
・『ヘーシングを育てた男』(道上伯伝記・生涯無敗。武専柔道家
 道上も全空連空手七段。高専・武専柔道家になぜか空手
 有段者が多い)真神博著
・『ライオンの夢』コンデコマ=前田光世伝 神山典士著
・『鬼の柔道』 木村政彦(記憶違いや間違い多・・増田俊也曰く)

2011.10.21 <肩の力をぬく>

 空手の練習時によく「肩の力をぬいて!」と声をかけますが、
言うは易しで力をぬくことはなかなかできないものです。
とくに稽古の合間の休めの姿勢(平行立ちもしくは八字立ち)の
ときに、かけ声に合わせ肩の上げ下げをするのですが、
必ずしもうまくいってない道場生をみかけます。
参考になる図を見かけましたので見てください。
http://www7.atwiki.jp/omisono/pages/44.html

 肩に力が入っている状態では、例外なく下腹部から下が
脱力しています。 上が力んで下が脱力してアンバランスな
状態と云えます。精神面の緊張と上半身(とくに肩)の緊張は
対(つい)と云え、解消するには身体の中心(重心)である
臍下三寸の丹田を意識することです。
肩の筋肉を柔らかくし、丹田を意識した呼吸法で上げ下げの
反復練習が必須ですが、続けていれば自然に体得できる
ものです。無理やり肩の力をぬこうとしたり、ただなんとなく
やっているようでは思ったような結果は得られません。

 学生空手(C大学のケース)では、早い人で半年、だいたい
二年生になるころには肩の力をぬくコツが自然に身につくよう
です。学生のドカ練習量とは大きな差がある社会人としては、
意識して『考えた練習』を継続すべきでしょう。ちなみに肩こりの
名手だった小生は、肩の力をぬくのにもだえ四年かかったと
記憶しています。

ー余談ー
 「肩が凝る」という言葉は、夏目漱石の造語。それ以前はなく
いわゆる肩こりという言葉が生まれた事によって、
多くの日本人が肩の筋肉が固くなる症状について自覚する
ようになったと言われる。

2011.09.17 <松濤二十訓>

 近代空手道の祖、師船越義珍の松濤二十訓。
松濤は船越義珍翁の雅号。主に教えたのは
ナイファンチ(鉄騎)とピンアン(平安)。

松濤二十訓(空手二十箇条)
1.空手道は礼に始まり礼に終る事を忘るな
2.空手に先手なし
3.空手は義の補(たす)け
4.先づ自己を知れ而して他を知れ
5.技術より心術
6.心は放(はな)たん事を要す
7.禍(わざわい)は懈怠(かいたい)に生ず
8.道場のみの空手と思ふな
9.空手の修業は一生である
10.凡ゆるものを空手化せよ其処に妙味あり
11.空手は湯の如し絶えず熱度を与えざれば元の水に還(かえ)る
12.勝つ考は持つな負けぬ考は必要
13.敵に因って轉化せよ
14.戦は虚実の操縦如何に在り
15.人の手足を剣と思へ
16.男子門を出づれば百万の敵あり
17.構は初心者に後は自然体
18.形は正しく実戦は別物
19.力の強弱体の伸縮技の緩急を忘るな
20.常に思念工夫せよ

2011.08.13 <空手は『受け』から>

<爾来、空手に先手なし>
 伝統空手を学ぶ者にとっては忘れてはならない言葉だ。
武道の精神として理のない先制攻撃はあってはならぬ
ことの意だが,(武)術としてもまず身を守りそれから
攻撃、とするのが自然だろう。

 ひいては現在行っている競技の組手で、一種の戦法として
ではなく、先手必勝を錦の御旗にすべて攻めの一方通行は
あまり感心しない。
 成るほど若さや体力にスピードを加え勢いで攻めるのも
一手だが、それだけではやがて衰え通用しなくなる。
技を磨き徹底的に体に覚えこまさないかぎり空手は生涯の
伴侶とはなり得ない。

 かの大山倍達が30代半ば、自分では一番強かった頃と
述懐しているが、香港で60代の爺さんの道場主と相対した
とき「軽く一蹴、けがをさせないようにしなくては」と
思ったが、突き(攻撃)は全て『受け』でかわされ愕然と
したという。所詮直線だけの突き(動き)では曲線の動き
には対抗しえないと悟ったともいう。

 元より基本の稽古は『受け』から始まるが、初心に戻り
素直に基本を見直し、『受けて突く』を徹底的に体得し、
そして自分なりに工夫する「守破離」の精神がそこに
求められるではなかろうか。

2011.07.19 <合宿>

 恒例の岩井海岸での合宿、16~18日の2泊3日は
事故もなく無事終えたが、地震後とはいえ早朝の海岸で
いつも見る臨海学校の生徒や合宿生のランニングが
ゼロに近い状態にはがっかりした。過剰反応がここまで
きたのかと慨嘆。

 1回の合宿の成果は通常稽古の2~3ヶ月分に
匹敵すると言われるが、やはり没頭できる環境の
海や山や湖畔に泊り込み身を置くことは、日常生活を
忘れて究極の集中ができ相当な効果を生むようだ。

 ひと昔前の学生(C大學)は5泊6日ぐらいが
普通だったが、今は3泊4日。それでも年に2回
やるという。社会人には真似が出来ない。
年に1回がせいぜいだが、毎年参加するため
頑張って調整する我が道場生の心意気には感心することが多。
合宿場の佐野荘のオヤジさんも
引退せずに来年も待っているとメールが来た。

 『人格とは人と人との間にあり』はこれから黒帯を
しめる道場生たちの今後の課題として、また心身の鍛錬と
ともに道場生間の人間的な交流をより深めていって欲しいと
合宿を省みて心から願う次第。

<ありがとう!>
去年に続き特大スイカの陣中見舞い、新任一尉・杉山嬢に感謝。

2011.06.21 <筋トレ5点セット>

 『腕立て・腹筋・スクワット』の3点セットを、元がんセンター所長、
垣添忠生氏が先日までの連載、読売新聞「時代の証言者・
がんと人生」で健康法として毎日励行しているという。ちなみに
氏は60代半ば。成るほど体力の維持・増進にはまさにこの3点は
欠かせぬ運動であるが、空手をやる者にはもう2点加える必要が
ある。。『四股立ちに又割』で、自在の動きやケガ防止に
お相撲さんのような柔軟性が不可欠だ。 それにアスリートで
なくても、この5点セットは日常の体力づくりに有効であることは
いうまでもない。
 森光子のスクワット、故鈴木元都知事の1日1mm柔軟、
故井上靖の又割などを知るが、井上靖に関しては
旧制第四高等学校柔道部時代には一切やらなかった又割を
晩年に始めている。
 入院しているときにもベッド上でやっていたと時の主治医に
聞いている。早い遅いは別として気付いた時が旬のようだ。
とくに又割に関しては、
 身近な例では、10数年前、C大學の空手部の一年坊主が一念
発起して毎日風呂上りに5分間又割。なんと3ヶ月で割れ胸が
ついたという。
そういえばかの北朝鮮の特殊部隊では、訓練開始後3ヶ月で
強制的に又割すると脱北者(特殊部隊経験者)の手記を読んだ
ことがある。

 痛いからやらないでは進歩が望めない。徐々に励行すれば
誰でも1年ぐらいで開く(割れる)ものだ。是非、割れる日を
楽しみに、日々継続すればやがて快感に変わる。

           <筋トレ5点セット>     
      『腕立て・腹筋・スクワット・四股立ち・又割』

2011.05.14 <空手の精神を南米に広める達人>

 と称し『世界が尊敬する日本人25人』の一人として、
空手家・磯部清次を今週号(2011.5.18)のニューズウィークが
紹介している。南米といえばブラジルで前田光代がコンデ・コマを
名乗り、グレーシ柔術創生になくてはならぬ人だったことが
思い浮かぶが、ついで現役の空手家が敬意をもって評価された
ようだ。記事を転載する。

 世界一有名な空手の達人といえば、映画「ベスト・キッド」の
主人公に空手を教えた恩師ミヤギだろう。しかし南米では話が
別。極真会館(松井派)南米地区連盟の磯部清次師範(63)が
いるからだ。72年に24歳でブラジルへ渡り、南米に極真空手を
広めた第一人者。拠点のサンパウロの入門者数は当初100人
ほどだったが、現在は5万人に上る。指導者の育成にも力を
入れ、今では南米7ヵ国300支部を「磯部チルドレン」が運営する。
最初は武道の精神が理解されず、苦労の連続だった。「月謝を
払っているのに、なぜ掃除までさせられるのかと苦情が来たり」
と磯辺は語る。
「外国の人は結果がすべてと考えがち。でも武道はそんなもの
じゃない。たとえチャンピオンになっても、それは真の武道家への
通過点でしかない」稽古をさぼる生徒は資質があっても引き受け
ないが、見込んだ選手にはとことん付き合う。そんな姿勢で
フランシスコ・フィリォ、エヴェルトン・テイシェイラなど
世界チャンピオンを育ててきた。
「今まで続けてこられたのは磯辺師範のおかげ。勝つための
モチベーションを与えて続けてくれた」と、07年の世界選手権
優勝時にテイシェイラは語った。
そんな強い絆が真の空手家を育てる秘訣なのかもしれない。

2011.04.15 <基本>

 ずいぶん前の話になるが、C大学空手部出身で卒後10年
経って稽古に参加した輩が居た。何回かのキャンセルのあと
時間も遅れての参加だったが、経験者とは思えないぎごち
なさに不思議に思ったのだが、元同輩に聞けば4年間在籍
したが稽古にそんなに熱心ではなかったとの評。察するに
基本が身についていなかったので、10年の間に空手の
感覚が雲散霧消してしまったらしい。『素振り三段』の
言葉が剣道にあるが、基本を体に刻み込めば、間があっても
練習をやればある程度元に戻るものである。形状記憶合金も
記憶している元の基本形があやふやでは戻りようがない。

 その御仁は合宿参加を自分から申し出ていたが、当日影も
形もなく連絡もなし。空手に関する基本姿勢もさることながら、
人としての基本形欠乏症のようでもある。

 山吹道場生は多士済々でありながら和気藹々で雰囲気もいい。
ただ『基本をしっかり身につける』ことの大切さをもう一度
心に入れて、空手の稽古を励むことを切に望む次第です。

2011.03.18 <耐乏生活>

 地震後一週間経った。ここ東京では商品によっては通常の
2倍の供給があるのにスーパやコンビニで空っぽの棚を
見かける。災害には過剰反応がつきものだが、買いだめに
走るのは海外から賞賛を浴びている被災地の人々の我慢強さ・
秩序を保つ姿と比べて胸を張れるものではない。
 少なくとも武道をたしなむ者が人として同じ行動をとって
欲しくはないものだ。

 ルバング島に30年近くいた小野田少尉が見つかり帰国後
日赤病院に入院検査をしたが、悪いところはゼロ。全く
の健康体で贅肉なし(体脂肪率0)で、医者も驚いた。
それこそ耐乏生活30年。グァム島で28年間居た故横井庄一
さんは「耐乏生活評論家」の肩書きで全国を講演しまわったが、
小野田さんは『小野田自然塾』で実践でまさに今も子供を
たくましく育てている。ブラジルから帰国し新潟に数千坪の
土地を求め現在89歳の現役。志のある人の人生の軌跡には
感動がある。

 少々モノがなかっても心身とも健康に暮らしていける。
『不自由を常と思えば不足なし』江戸の新井白石の言葉を
もう一度噛みしめてみる必要がありそうだ。
2011.02.16 <三嶋由紀夫と空手>

 あまり知られてはいないが、三島由紀夫も空手をやっていた。
三島の肉体鍛錬歴は29歳の時に始まる。ホテルで缶詰めで
小説を書いている時に猛烈な腹痛。執筆どころか虚弱体質の
三島は痛みにこらえかね悶えに悶えた(本人の述懐)。これを
きっかけに「アオジロ」と呼ばれた子供の時からのひ弱さに別れを
告げるべく、この時初めて肉体改造の一大決心をする。そして
ボディビル・剣道・柔道・居合い・ボクシングと矢継ぎ早やに
始めるが、163cmの体を鍛えたのは主にボディビルと剣道。
剣道は昭和43年には5段。昂じて短編小説「剣」をも書いている。
昭42年4月には自衛隊体験入隊。その後も3回の体験入隊を
重ねている。
 割腹したのは昭45年11月25日(旧10月27日・・吉田松陰の
刑死日)だが死ぬ前年だったろうか、空手を始める。死後、
特車(戦車)の 前衛に乗る姿と空手道衣の三島を週刊誌で見た。
「40代で始めたのだが三島は素晴らしいセンスがあった。
惜しい、あと半年も あればものになってたはず」は当時三島に
空手を教えていた師の 談と記憶している。

ところで三島はある空手大会に推薦文も書いている。

 「正義は力」だが「力は正義」ではない。その間の消息を
もつともよく示してゐるのが、 空手だと思ふ。空手は正義の
表現力であり、黙した力である。口舌の徒はつひに正義さへ
表現しえないのである。

 今も山中湖畔に建つ三島文学館には、中段正拳突き空手衣
姿の三島の写真が見られる。

2011.01.15 <身体を知るともっと上達が早くなる>

 空手に限らず競技の技術を修得するのには体の
機能、ひいては自分の身体を知ることが先決。
若き日、4年間ただひたすらに伝統に基づいた
稽古をする大學の空手学部卒業者とは違い、
社会に出てから空手をたしなむ者にとっては
学生と同じ稽古は無理筋で、また合理性のない
体の動かし方・練習方法では共感度も低く継続も
覚束ない。

 体の構造・機能を知り、まず部位ではなく体幹
から鍛え、基本を徹底して身につけ、自分が得心
できる稽古をする。そしてその結果が序々に出て
くるのを実感することによって、それが自信となり
日々の自分の生活を支え、生き方にも良い影響を
及ぼす。

 「歯痛をこらえた哲学者を見たことがない」
バーナードショーの言葉だが、心身ともにバランス
がとれてはじめて健康といえる。

2010.12.26
<気合>

 40年来のお世話になっている歯医者に行った。
その先生は前から聞きたかったのだがと前置きし、
「患者に子供を教えている空手の先生が居るが奥歯
がガタガタ、それよりもひどいのは外人部隊帰り
の元兵士。ストレスのたまる外人部隊はなんとなく判るが、
空手は突き・蹴りの瞬間、奥歯をかみしめるのですか?」
ずっと疑問に思っていたと口にした。

 野球の王さんの選手時代の話は有名だが、空手には
歯を食いしばる要素はない。極めの瞬間に「気合」
を入れるので奥歯がきつく噛み合うことはない。
剣道も然り。「子供を教えるストレスでの歯軋り」では
ないかと応じたが、気合の入らない空手はあり得ない。
心技一体というが、心=気の発露が「気合」と考える。
各人気合は違うが、相手の腹にひびいてこそ気合と
いえる。

 3年に1度ぐらいの間隔でその歯医者に通っていたが、
今回は知らず偶然行ったのが廃業一日前。親父・祖父が
老いても続ける姿、弊害を見てきたので3代目の自分は
そうなる前に引退するとの潔い決断。それはいいけれど
これから小生はどうする? 「歯医者は一生に二人、
若い間は年配の先生、年をとると若手に。それで一生歯が持つ」
は本当だと実感。 これは余談。

2010.11.17 <背泳古賀選手の練習>

 世界水泳の背泳100で、日本に待望の金メダルを
もたらしてくれた古賀淳也選手のスタートの飛び込みには
定評があるが、本人が語るその秘訣は空手の型
『ナイファンチ初段』の練習にあるという。
キレが身上のこの型を反復練習することによって、
反射神経を研ぎ澄ます。まさに伝統空手の型・技が
合理性の極みにある競泳に結果をもたらした例と云えよう。 
山吹道場の亡くなった越智師範(藤谷師範と同輩)の
得意の型だったことも何かを想い起こさせる。